〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/17 (土) 投 石 (一)

「院には、何の誠意も見られぬ。請願の儀は、二件とも、突っ返された。加賀白山の一ヶ条だに、裁可ある見込みはない。このうえは、神輿を奉じて、法皇のもう を、ひらき奉れ」
いま、鳥羽院から帰って来た横川よかわ ノ実相坊や止観院ノ如空坊じゃ。ここに交渉の帰結を待っていた二千余の大衆に向かって、感神院の石段の上から、交渉の決裂を、揚言した。
大衆は、憤激して、
「行けっ。 らしめろ」
と、すぐ身じたくにかかり、神輿の動座にむらがった。
動座に先だって、百星にまがう燈明が灯された。祗園の林も煙るばかりに護摩ごま を焚く。凡音ぼんおん磬音けいおん仏楽ぶつがく は、出陣の鉦鼓しょうこ に似ていた。何か、ものずさまじい呪気じゅき がただよう。やがて、白丁はくちょう を着た人びとの肩に、担い出された日吉ひえ 山王の神輿は、金色さんらんと、 を照り返し、大衆のとき の声に乗って、ゆら、ゆら、ふもとの大路へむかって進んで来た。
と。突然。
「凶徒ども、待てっ」
と、どなって、神輿の行く前に、立ちふさがった一個の男がある。
なんのかざりもない、くろがね のかぶとをかぶり、荒目の具足を着、わらじばき、手に、強弓ごうきゅう をたずさえていた。
すこし、うしろに、かれの義弟時忠と、平六家長のふたりが、無手ではあるが、まるで、仮面めん のような、硬直した顔をそろえて、突っ立っていた。
「── 鳥羽院に仕える安芸守平ノ清盛とは、おれだ。叡山えいざん に人間がいるならば、これへ出て、人間の言葉を聞け、凶徒どもの中には、物の分る人間もいるだろうに」
何か、真っ黒な、等身大の阿修羅あしゅら の彫刻でも口をあいて、怒鳴っているように、その姿は見えた。
この不敵な男の態度と、ことばに、山法師の大群は、勃然ぼつぜん と、怒りを逆巻いて、
「すわ! 清盛ぞ」
ほうむ れ。血まつりに」
と、たけ った。
大法師の如空坊、実相坊、乗円坊などは、さすがに、あわてもしなかった。ひきいる大衆を制止して、こうなだめた。
「いや、言わせてみろ、何を ざくか。 ── 手を出すな。まず、言わせてみるがいい」
その間に、神人じにん たちの、白い群れは、
「神輿をけが すな。神輿を」 と、うしろへ、うしろへと、列を、推しもどした。
天地の生んだ一個のもの。その清盛は、大路の真ん中にあった。そしてなお、しゃがれ声を、張り続けていた。
「なんじらの欲するものは、なんじらに与えてやろう。ここに連れて来た舎弟時忠、家人平六のふたりを、受け取るがいい。 ── ただし、二人とも、生きものだということを知っておけよ」
「・・・・・・」
こう聞くと、対峙たいじ して、見すえていた如空坊たちは、苦笑いを浮かべた、苦しい妥協に来ての負け惜しみと聞いているらしい。 ── が、清盛は、ひと息入れて、さらに、言い放った。

『新・平家物語(一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
Next