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2012/03/15 (木) 平 氏 の 主 要 人 物 (三)

たいらの 教盛のりもり (1128〜1185)

清盛の異母弟。母の出目がよいため昇進も早かった。
応保元年 (1161) 憲仁のりひと 親王 (後の高倉天皇) の立太子を平時忠ときただ と謀ったことが発覚して解官され、鹿ヶ谷事件では娘婿むこ の父、藤原成親なりちか が捕らわれ、連座して娘婿の成経なりつね も捕らわれたため、苦境に陥った。
最期は壇ノ浦合戦で一門と共に入水。清盛にとって数多い兄弟の中で最も親愛の情で結ばれていた弟だった。
たいらの 教経のりつね (1160〜1185)
平教盛の次男。海上戦を得意とする猛進型の武将で中心戦力。
一の谷合戦では山の手の防備を受け持つ。 『吾妻鏡』 では源氏に討たれたとするが、誤伝。
『平家物語』 では生き延び、屋島合戦では強弓で散々に矢を放ち、源義経の忠臣、佐藤継信を射落とした。壇ノ浦合戦での武勲も有名。矢が尽きると、義経を討とうとして源氏の船に跳び移る。義経が跳んで逃げると、二人の敵を両脇に抱えて海に飛び込んだ。
たいらの 家貞いえさだ (1082〜1167)
伊賀を本拠とする平氏の一族で、譜代の朗等となり、正盛・忠盛に仕えた。
平氏の海賊追討の中心となり、公卿が忠盛内昇殿を妬んで闇討ちにする陰謀から救うため密かに従って危機を救った。
保元・平治の乱では清盛をたすけて活躍し、筑後守となり、九州での勢力拡大に励んだ。
「平氏第一の朗等、武士の長なり」 といわれた。
たいらの 盛国もりくに (1113〜1186)
伊勢平氏の一族で、累祖るいそ 相伝そうでん家人けにん として清盛を支えた。保元・平治の乱で活躍し、また平家納経の製作に関与している。
平家貞の没後は第一の家人となった。清盛は九条河原口の盛国邸で亡くなっている。
壇ノ浦合戦で生捕られ、鎌倉に送られる。源頼朝は盛国を助命したが、断食して没したという。一の谷合戦で源義仲討伐に向い討ち死にした侍大将盛俊もりとし は子になる。
とう 忠清だきよ (?〜1185)

伊勢の出身で、早くから平家家人。
保元の乱で清盛軍の先陣として活躍し、治承三年の政変の後 「坂東八ヶ国の侍の別当」 として東国の平家家人を統率する立場となった。
また平維盛の乳父めのと (乳母の夫) であり、清盛隠棲後は重盛の家人として富士川合戦に侍大将として従った。
平氏の都落ちには同行せず、以降は独自に戦った。

「平清盛」 発行: NHK・NHKプロモーション ヨリ
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