源
頼朝 (1147〜1199) |
源頼朝は源義朝の三男ながら嫡子とされていた。平治の乱の敗戦により、東国に逃れようとしたが、平氏に捕縛された。しかしながら、池の禅尼の嘆願により一命を取り留め、伊豆国蛭が小島に流された。 後に以仁王の令旨により各地の源氏が挙兵するに際して、東国で挙兵する。平氏を滅亡させ、鎌倉に幕府を開き、初代将軍となった。 |
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源
義経 (1159〜1189)
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父源義朝が平治の乱で敗れた時、牛若丸と呼ばれた子供であった義経は、鞍馬寺に預けられた。後に奥州平泉に下り、藤原秀衡の庇護で成長した。 兄頼朝の挙兵の折には、平泉より兵を率いて参陣し、主力として西国で平氏と戦った。 その後、頼朝と不和になり、秀衡を頼ったが、頼朝から詰問された藤原泰衡に攻められて自刃した。 |
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源
為義 (1096〜1156)
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源為義は清和源氏の流れを汲む河内源氏の棟梁であった。父親は源義家の子・義親。 平忠盛とともに寺院勢力の強訴の鎮圧に当たるなど、京都で活躍していた。 保元の乱に際しては、藤原忠実の家人であったことから崇コ上皇派に属し、主力として戦った。しかしながら敗れ、後白河天皇派に属した子の義朝に処刑された。 |
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源
為朝 (1139〜1107)
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鎮西八郎の名で知られた源為朝は、父為義に追放され、九州地方で暴れまわった。その武勇は鎌倉時代においても
「無双の弓矢の達者」 と伝えられていた。 保元の乱に際しては為義とともに崇コ上皇方に属して奮戦するが、敗れて伊豆大島に配流された。 伊豆諸島では、伊豆七島を平定したなど、為朝に関する伝承を多く伝える。 |
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源
義朝 (1123〜1160) |
相模国鎌倉に屋敷を持ち、幼少の頃より東国で育った。南関東を中心に基盤を固め、東国武士との主従関係を築いた。 その後、京都に活躍の場を移し、保元の乱では平清盛と共に後白河天皇方の軍事力の中核となった。 乱後は藤原信頼に接近し、平治の乱では一方の中核の軍事力を担った。しかし敵対した平清盛に敗れ、東国に下る途中、尾張国で謀殺された。 |
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常
盤 御
前 (1138〜?) |
近衛天皇の中宮である九条院の雑仕女で、源義朝の妾
(側室) 今若、乙若、牛若 (源義経) を産むが、義朝が平治の乱で亡くなる。物語では、雪中を逃げて大和に着くが、母が捕らわれたのを聞き、助命を清盛に願う。清盛はその美貌から妾になることを請い、一女を産んだという。後世、清盛が助命と引き換えに妾を強いたと脚色される。 |
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「平清盛」 発行:
NHK・NHKプロモーション ヨリ |