平
家盛 (1120〜1149) |
清盛の異母弟。忠盛の次男で、藤原宋
子
(池 禅
尼 ) との間では長子。正室の子であるため官位は急上昇したが、忠盛に随行した熊野御幸の帰路、久安四年二月、病気のため宇治で若死にした。 |
|
平
重盛 (1138〜1179)
|
清盛の長子で、高階
明子 が母。順調な昇進を続け、平治の乱での武勇は称賛された。 仁安二年
(1167) に清盛が清盛が第一線を退いた時には軍事指揮権を任された。また後白河院にも重用され、鹿ヶ谷事件以降、両者の板挟みとなった。 『平家物語』
では温厚な人格者だが、次男の資盛
が恥辱を受けた 「殿下乗合
」 事件で報復したのは清盛ではなく、重盛であり、執念深いところがある。 晩年は病気で、四十二歳で病死する。 |
|
平
宗盛 (1147〜1185)
|
清盛の三男。時子との間では長子であり、二十一歳で公卿になるなど後継の一人として順調に昇進。 重盛没後は平氏の棟梁となり、治承五年
(1181) には畿内惣官職として平氏の軍政を支えた。 清盛没後、後白河法皇に政権返上を提案、一の谷合戦後の平和交渉でも政治的な能力のなさを露呈した。 壇ノ浦合戦で捕らわれ、源頼朝に助命を嘆願するが、斬首される。 |
|
平
知盛
(1152〜1185) |
清盛の四男で、母は時子、最愛の息子と言われる。 武家系官職を歴任、沈着冷静で軍事の秀でた才能を見込まれ、
『平家物語』 は多くの合戦に出陣したというが、確認出来ない。 また武蔵国の知行国主となって関東での組織化に務めた。 軍事の中枢を担って戦略を立て、一の谷合戦では生田森の大将軍、壇ノ浦合戦では
「見るべきほどのことは見つ」 と言って碇
を身体に捲きつけ入水したと言う。 |
|
平
重衡 (1157〜1185) |
清盛の五男で、母は時子。器量がよくて開放的で屈託のない宮廷の貴公子であったという。 高倉院の側近として政務に当たる。軍事でも才能を発揮して連戦連勝だった。しかし、一の谷合戦では生田の森副将軍として奮戦したが、敗走の時に生け捕られて鎌倉に送られる。頼朝に器量を認められたが、南都焼打も責任を問われて東大寺に引き渡され、斬首されて奈良坂に晒された。 |
|
「平清盛」 発行:
NHK・NHKプロモーション ヨリ |