平
正盛 (?〜1121?) |
伊勢平氏を中央の政界に登場させた立役者。 自領の寄進によって白河院の目にとまり、祗園女御
や院の近習 ともつながって勢力を広げ、備前などの受領
を歴任し、豊富な資金を得て院の造寺造塔事業を支えた。 また西国の海賊追討、強盗の追捕などで武力を発揮した。 嘉承二年
(1107) の源義親
(源義家
の嫡男) の反乱を出雲で制圧している。 |
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平
忠盛 (1096〜1153) |
正盛の嫡男。正盛の実績と家格の上昇で初めから白河・鳥羽院政で重要な役割を果たした。 海賊追捕などの武力で院政を支え、また受領の歴任で蓄えた財による造営事業の功によって、伊勢平氏で初めて宮中の清涼殿の殿上
の間に昇ることを許された。 また九州では日宋貿易にも関与していた。艶福家で、歌人であり、笛の名手である。 公卿への昇進は果たせなかった。 |
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藤原
宗子 (池禅尼
) (204?〜-64?) |
忠盛の二人目の妻で正妻。家盛
(二十歳で没) 、頼盛を生む。清盛には継母。 父の藤原宗兼は白河院近臣であり、白河・鳥羽院政で力のあった家系に繋がる存在だった。 忠盛の死後、出家して池禅尼と呼ばれる。崇徳上皇の皇子の乳母だったが、保元の乱では後白河天皇と組む清盛について一門の結束を守り、平治の乱では源頼朝の助命を清盛に嘆願した。
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祗園女御
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住む所にちなんで祗園女御、または白河殿と呼ばれ、晩年の白河院の寵愛を一身に受けた。 また丈六
仏を安置して金銀珠玉で飾り立てるなど 「天下美麗過差」 は人々を驚かせたという。 正盛・忠盛が早くから仕えた。 『今鏡
』 は、正盛・忠盛らの出世は祗園女御の賜物だとする。また待賢門院 (崇徳上皇・後白河法皇の生母) を養女として育てた。
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平
時 子
(1126〜1185) |
清盛の後妻。摂関家家司の家で、鳥羽院の判官代
であった平時信 の娘。 弟の時忠
は 「平氏にあらざれば人にあらず」 の放言で知られる。 異母妹に後白河院の寵妃となる滋子 (建春門院) がいる。三男の宗盛を久安三年
(1147) に生み、二條天皇の乳母ちなる。清盛没後、出家して二位尼
と呼ばれ、宗盛とともに一門を率い、安徳天皇とともに壇ノ浦で入水する。 |
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高階
明子 |
清盛の最初の妻。下級貴族の近衛
将監 高階
基章 の娘で、清盛が中務
権大輔
(天皇の側まわりの文書事務など) であった時に高階基章と知り合ったのが機縁となった。 重盛を保延五年 (1139)
に、続いて基盛を生み、死別した。明子の実父は摂関家の家長・藤原忠実
の可能性が高い、との指摘がある。だとすれば殿下乗合事件は基房
と重盛との孫同士の確執となる。 |
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平
滋子 (建春門院
) (1142〜1176) |
平時信の娘、時子の異母妹で清盛の義妹。 上西門院
(鳥羽天皇第二皇女) に仕え、美貌と聡明さから、上西門院 の弟である後白河院の寵愛を受け、盛国邸で第七皇子 (後の高倉天皇)
を産む。この頃、後白河院と二条天皇で主導権争いががり、出生は批判の的となった。 女院号は建春門院。死後、清盛と後白河院の対立が表面化する。 |
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平
徳子 (建礼門院
) (1155〜1213) |
平清盛と時子の娘。 清盛は徳子を六歳年下の高倉天皇に入内させることを希求し、後白河院も政治基盤の安定のため受け入れ、承安元年
(1171) 十二月に実現した。 治承二年 (1178) ようやく皇子 (後の安徳天皇)
を出産して国母となる。 平氏一門と行動をともにするが、壇ノ浦合戦で生き残り、大原で安コ天皇と一門の菩提を弔った。 院号は建礼門院。 |
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「平清盛」 発行:
NHK・NHKプロモーション ヨリ |