白
河
法
皇
(1053〜1129) |
平安後期に院政を開始した人物。応徳三年
(1086) 白河は皇子の堀河に譲位した後も、上皇として院政を行い、孫の鳥羽、曾孫の崇徳と、三代の天皇、四十余年にわたり、絶大な権力を誇った。 その専制政治の姿から、
「天下三不如意」 (加茂川の水・双六のさい・山法師) の逸話も生まれた。 「王国の氏寺」 法勝寺も建立している。また、平清盛を白河法皇の落胤とする説もある。 |
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崇
徳
天
皇
(1119〜1164) |
鳥羽天皇の皇子で、母は待賢門院璋子。 院政を行う父鳥羽上皇は、寵妃の美福門院徳子との間に皇子が生まれると、崇徳に退位を迫り、幼い近衛天皇を即位させる。ところが近衛天皇は早世。崇徳は自分が重祚するか、自分の皇子の即位を望むが、美福門院や関白藤原忠道の支持する同母弟の後白河が即位し、その子が皇太子となる。望みを絶たれた崇徳は、鳥羽法皇の死を契機に、保元の乱を起こした。 |
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藤
原
忠
実
(1078〜1162) |
平安後期の摂政・関白で、世に知
足 院
殿 また富家
殿 と称される。 保元元年
(1120) 忠実は娘を鳥羽天皇のもとへ入内させようと謀り、白河法皇の怒りを買う。それにより忠実は内覧を停められ、長男忠通がその地位を継ぐ。 その後、鳥羽院政下、忠実は次男の頼長を推して、長男忠通と対立。 摂関家におけるこのような内部争いは、保元の乱勃発の大きな要因となっていく。 |
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藤
原
忠
通
(1097〜1164) |
平安後期の摂政・関白で、世に法性寺
殿 と称される。藤原忠実の長男で、異母弟に頼長がいる。 美福門院と結び、鳥羽法皇の信任を得て、父忠実・弟頼長と対立、保元の乱の一因をつくる。乱後は、摂関家の保全のため、父忠実の所領を相続し、その配流を防いだ。 書に優れ、法性寺流の祖とされる。 |
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藤
原
頼
長
(1120〜1156) |
平安後期の左大臣で、世に宇治左大臣また悪
左 府
と称される。藤原忠実の次男で、異母兄に忠通がいる。 頼長は 「日本第一の大学生
」 と評されるほど博識多才の人物で、父忠実に愛され、兄忠通とは藤原氏の氏長者の地位をめぐり対立する。のち頼長は崇徳上皇と結び保元の乱を起こすが、あえなく敗死する。 |
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信
西
(藤
原
通
憲
) (1106〜1159) |
平安後期の政治家・学者で、博識多才の人。出家して信西と称す。 妻の紀二位
(藤原朝子) が後白河天皇の乳母
であった関係から、天皇即位とともに権勢を得る。 保元の乱では、天皇方に勝利をもたらし、乱後は後白河の近臣として活躍、政治を左右するほどになる。しかし、後白河の退位とともに、その力は次第に弱まり、平治の乱において、藤原信頼らの追撃を受け、斬首されている。 |
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「平清盛」 発行:
NHK・NHKプロモーション ヨリ |