寺社権門や武士を伴った摂関家を初めとする貴族との権力闘争のなかで、清盛の祖父・正盛は北面の武士となり、出雲で源義親追討使を務め成果を挙げる。正盛は北面の武士や検非違使、追討使として活躍する一方で、各地の受領をも歴任し任地を武力で治めた。清盛の父・忠盛も北面の武士となり院に重用される一方、受領をも務め、日宋貿易にも直接介入した。このようにして二代に渡り北面の武士として上皇の身近に近侍し、実績を重ね有力な院の近臣となり権力に近づいて行った。そして清盛も継承し、北面の武士として上皇に近侍し、保元の乱での活躍がその地位を不動のものにした。慈円が、
「愚管抄」 のなかに 「保元元年七月二日、鳥羽院失セサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆ト云フコトハチコリテノチ、ムサ (武者) ノ世ニナリニケルナリ」
と記したように、清盛を主役とした武家政権の時代が到来したと考えられる。 |