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2012/03/14 (水) 平 氏 政 権 の 位 置 づ け

かって学会では平家政権が貴族政権の中に位置づけられ、院政末期の一部に含められていた時期もあったが、近年では平氏政権が初の武家政権であるとする見解が主流である。
平氏政権は、資料的制約からその実態が明確ではないが、知行国においては国守護人的な存在の者、荘園においては地頭と呼ばれる職を任命して現地支配に当たらせたことが指摘されている。また各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣している。この平氏政権による地頭等の任命は、のちに鎌倉幕府がそれに倣い守護、地頭を設置したとも考えられており、それだけ清盛の政策は先進的であったともいえるのである。またこれも詳細が不明な点が多いのだが、治承五年 (1181) に設置した畿内惣官職や諸道鎮撫使は、数か国にまで及ぶ広い領域を軍事的に直轄支配するものと解釈されており、特に畿内惣官職は征夷大将軍に匹敵する職掌であったとする指摘もある。
以上のようなことから、平氏政権は明らかに初の武家政権であり、学会においても通説となっている。鎌倉幕府による武家政権の前発達段階というより、鎌倉幕府とは異なるタイプの武家政権であったと考えることも出来る。
歴史に 「もし」 は禁物であると言われるが、清盛が急死することなく、源氏が平氏を攻撃することがなければ、平氏政権は鎌倉幕府とは異なった、西国を中心とした独自の武家政権を樹立していた可能性も指摘されている。二百年後、清盛が意図していたものに類似した政策を推進した人物がいる。都に幕府を開き朝廷を内包し、日明貿易を強力に推し進め武家政権を樹立したのは、室町幕府三代将軍・足利義満である。このことから考えても平清盛が意図していた武家政権は先進的なものだったといえるのではなかろうか。

「平清盛」 発行: NHK・NHKプロモーション 著:石橋健太郎 広島県立美術館 ヨリ