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2012/03/13 (火) 天皇家と摂関家の権力闘争

さて、武家がどのようにして中央進出をはたし、中央での発言権を増し、政治的実権を獲得してゆくのかをみてゆきたい。
政治的実権の移行の推移を観点として歴史の流れを見ると、一般に、天皇親政→摂関政治→院政→武家政権→と見られることが多い。天皇家と摂関家、そして武家による政権掌握のための権力闘争の歴史と見る見方がある。
まず、天皇が大王と呼ばれていた頃から、豪族や官人の補助を受けて政治を行っていたことは確かであろうが、実質的に天皇が親政を行うことから離れる契機となったのは、摂関政治の誕生によると考えられている。摂関政治の基を作ったのは、中臣鎌足以来、天皇家に最も近しい氏族であった藤原氏の藤原冬嗣であった。冬嗣は810年、天皇の筆頭秘書官とも言うべき蔵人頭 (蔵人所の長官) に就任し、天皇を補佐し弘仁格式を成立させ、自らの属する藤原北家を台頭させた。冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと皇族ではない臣下から初めて就任した。これが摂関政治のはじまりである。
藤原氏の政治手法は、他の有力貴族を失脚させること (他氏排斥) と、娘を入内させて皇子を生ませ、天皇の外祖父として権力を握る手法であった。これは後に平清盛がそのまま踏襲している。また藤原氏は伴氏・橘氏及び藤原式家、また紀氏を失脚させた。娘を皇室に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、摂政となり天皇の代理者・補佐官として権力をふるうことになる。後に年配の光孝天皇が即位に際し、藤原氏は関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理である摂政として政治の実権を握ってきたが、これより成人の天皇の実権代行者である関白の地位も手にした。何代かの天皇が摂関家から政権を奪取して親政を実現しようと試みるが、間もなく摂関政治が復活し親政は実現しなかったのである。
このようにして摂関政治により親政を阻まれた天皇家が、政治的実権を奪還するために生み出され、機能したのが院政であるとみることもできる。白河天皇は1086年に上皇となったが、上皇としての政治を行ういわゆる院政を開始した。
上皇は天皇と同等の実権を持つ一方、天皇のように宮中内の制度や慣習に縛られること無く、行動や意思決定も自由であった。こうして天皇家は上皇が院政を行うことにより摂関家から政治権力を奪還したのである。一方、院政が武家の中央進出を促した面があるのではないかと考える。というのは、院政開始以前の政治的権力闘争は、摂関家を中心とした藤原氏と他氏の権力闘争であり、宮中内が舞台であった。しかし院政開始後は、上皇が内裏を出て院御所を構えたことから、上皇対摂関家等の権力闘争となり、その舞台は宮中の外に広がって行き、武士の介在が必要不可欠となってゆくからである。

「平清盛」 発行: NHK・NHKプロモーション 著:石橋健太郎 広島県立美術館 ヨリ
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