政治的実権の移行の推移を観点として歴史の流れを見ると、一般に、天皇親政→摂関政治→院政→武家政権→と見られることが多い。その中で貴族政治を摂関政治・院政までとするか、平氏政権は平安時代の貴族政治の一環として位置づけるかどうか、学界においても議論されてきた。かっては鎌倉幕府が初の武家政権として位置づけられる場合が見られたが、近年では、平氏政権が初の武家政権であると、ほぼ見解が一致している。というのは次のような性格が平氏政権にあったからである。 平氏政権は、一見、公家・武家・寺社が融合した政治権力に見え、保元の乱以前の摂関政治に共通する性格も見出せる。しかし清盛は天皇家を政権内に取り込み、また従来習慣的に信仰されてきた寺社ではなく、厳島神社などを信仰することにより、平氏政権が従来の貴族政権とは異なるという独自性をアピールした。やがて天皇・上皇や摂政・関白らの動きまで掌握し、福原遷都まで断行したことは特筆に値する。平氏政権の権力の背景をなすものは、清盛が率いる家人を中心とする武士・武力であり、このことがとりもなおさず平氏政権が武士政権であったことの証左なのである。また遷都を実施させるほどまでに朝廷を支配した事実から、平氏政権は、平安末期の貴族政治の延長ではなく、鎌倉幕府とは異なった形の初の武家政権であったといえよう。 |