〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/11 (日) 六 波 羅 幕 府 (二)

平家は治承三年正月の段階で十ヶ国の知行国を有し、多数の荘園所領を集積し、中国貿易からの利益もある。そうした豊な経済力に加え、国家の軍事警察権を掌握し、王家や摂関家に対してもミウチの立場に立っていた。その意味では、後白河院とも肩を並べる権力者になっていたとはいえ、入道相国が京都で後白河と向き合えば、王家の家長の意向は、さすがい無視し難い。しかし、都の近傍に立ち退けば、当時の交通、通信の状態では、コミニュケーションは途絶えがちになり、院とのかかわりは減少する。空間的・時間的な距離は、相手との政治的・心理的な距離に対応する。
そこで常には、婚姻関係で結ばれた親平家の公卿や一門の子弟に、朝廷や院との対応を任せる。これら親平家の公卿達は、入道相国や平家一門にかかわる案件では 「入道の意向」 に配慮し、それに添うように立ち回った。いや、承安から治承にいたるころには、それ以外の公卿たちも入道相国の意を迎えるのに汲々としていた。もともと平家の公卿たちは、政務の運営や朝廷・宮廷の恒例・臨時の行事を滞りなく催行するだけの経験や知識の蓄えがない。平家は 「侍」 身分から、わずか三代で王家の外戚にまで駆け上がった。だから、一門内には、院御所での評定や各種の公卿会議に出席する資格と見識があると判断された人材は一人もいない。また、除目など朝廷の重要行事を主導する役を努めた者も皆無だった。その意味で平家に協力する公卿達の存在は貴重である。
そして院から平家の意に反する問題が提起されたとき、在京の平家公卿たちは、遠所にある入道相国の意向を理由に事実上その要求を拒み、あるいは時間稼ぎをし、最後は入道相国の上洛による政治決着にゆだねる、といった対応を取っていた。入道相国は福原から指示を送る、あるいは京都からの働きかけを待つだけでなく、必要とあれば速やかに上洛した。重要事項は後白河院とのトップ会談で決する。そして要件を済ますとさっさと福原に帰っていった。
入道相国の福原居住が、京都を留守にするマイナスを差し引いても、平家の威信や自立を確保するのに、有効な方法だった事実は疑えない。実際、在京し日常的に姿を見せるより、離れた場所にあって、誰もが対処に窮するような切羽詰った難局、つまり国家の一大事という場合にだけ現れて事態を動かす方が、存在感はずっと高まる。素顔があらわになるより、普段は何を考え、何をしているのかよく分らない方が不気味で、カリスマ性は増すというものである。
鎌倉幕府を開いた頼朝は、国家の軍事警察権を握り、六波羅を御家人による内裏大番の出先実行機関として、本人自身は広大な東国を支配し、しかも鎌倉から動こうとはしなかった。その目で見ると、摂津福原・六波羅に二拠点で構成された平家の政治権力は、鎌倉幕府のやり方を先取りしたものと言える。いや、鎌倉幕府は平家が創りだした体制をひな形とし、それを踏襲、一層整備された形で推し進めたという方が正しいだろう。
平家のそれは 「六波羅幕府」 と呼ばれるのがふさわしい。ちなみに平安時代に幕府といえば、近衛府の唐名で、転じて近衛大将の居館、また左右の大将その人を指していた。頼朝も建久元年 (1190) 短時日ではあるが、右近衛大将に就任している。その意味で、全国の平家御家人の結集を力の根源とし、頭に重盛・宗盛の両近衛大将をいただく平家の権力は。名・実ともに幕府と呼ぶにふさわしい。

「平清盛」 発行: NHK・NHKプロモーション 著:高橋昌明 神戸大学名誉教授 ヨリ
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