〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/12 (月) 短 す ぎ る 夢

平家の急激な勢力拡大は、後白河院・摂関家など既成勢力の反発を招く。安元二年 (1176) 建春門院滋子が死ぬと、平家と院との暗闘が表面化、翌年には鹿ケ谷事件も発生した。後白河側の挑発と平家の院権力への反発が火花を散らすなかで、治承三年 (1179) 十一月、入道相国は突如クーデタを敢行、反平家の貴族を大量処分、後白河院政を停止し、軍事独裁政治を開始する。
学界では、このクーデタ以後、厳密な意味で平家の政権が成立したという見解が有力である。そして翌治承四年二月高倉天皇が譲位、徳子の生んだ言仁ときひと (安徳天皇) が即位し、高倉上皇 ─ 安徳天皇の一対と、下支えする平家の軍事力からなる平氏系新王朝が誕生した。それまで幕府であったのが、新王朝へと飛躍したのである。
クーデタによって強引に新王朝を誕生させたことは、平家の国家支配層内部における孤立を招いた。また知行国・荘園を大量に集積し、それを自らの政治的経済的基盤としたことは、国衛領・荘園の内外に醸成されつつあった社会的・政治的な諸矛盾を一手に引き受けることを意味しており、平家 (中央) と地方社会の対立に深まった。それゆえ同年五月、以仁王・源頼政らの挙兵発覚がきっかけとなって、内乱はたちまち全国化し、反平家勢力は巨大な力を持つにいたる。
この間、平家は天皇・上皇を福原に遷し、新都を建設しようとしていた。新王朝には新都が不可欠だからである。しかし内乱の深化とともに還都の声が高まり、170日後、都還りとなる。また、高倉院の健康悪化により、後白河院に院政の再開を要請せざるを得なかった。これらは平家がもう一度幕府に逆戻りすることを意味していた。
その後入道相国は、闘志をかきたて、年末には南都を焼き、翌治承五年正月、畿内とその周辺の九ヶ国を一種の軍政下に置き、宗盛をその責任者に任ずるなど、体制立て直しにやっきとなった。しかし、閏二月には無念、病に倒れる。
平家が壇ノ浦で滅亡したのは、その四年後だった。

「平清盛」 発行: NHK・NHKプロモーション 著:高橋昌明 神戸大学名誉教授 ヨリ