〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/03/10 (土) 六 波 羅 幕 府 (一)

彼の立身ぶりを紹介してきたが、紙幅も限られている。この後は、特に重要と思われる福原への退隠と彼の政権への関与の方式を中心に論じたい。
自由な立場になった入道は、いよいよ独自プランの実現にばく進する。その拠点となったのが、摂津国福原 (現神戸市兵庫区平野) である。彼は嘉応元年 (1169) 春、本拠である六波羅を嫡子重盛 (先妻の子) に譲り、福原の別荘に転居した。同地に注目したのは、平治の乱後三年たった応保二年 (1162) のことと思われる。この年、清盛は摂津国最西部に位置する八部やたべ(現神戸市中央区の西半分、北区の一部と兵庫区、長田区、須磨区の全域を含む地域) を領有する権利を得たらしい。その地域には、福原と古代以来瀬戸内海の要港であった大輪田泊が含まれていた。また仁安二年 (1167) の太政大臣辞任直以後に 「大功田」 として、播磨国印南野 (明石から加古川にわたる一帯の平野) を朝廷から下賜される。これらをはじめとする西摂津・東播磨の広大な地域が、平家の基盤的勢力圏として囲い込まれた。
福原の入道相国は、中国南宋との間に国交を開こうと計画した。これまで九州博多どまりであった宗船を瀬戸内海に引き入れ、大輪田泊を対中国貿易の拠点港とすることが目ざされていた。平家は忠盛以来日宗貿易に関与してきた。十一世紀には途絶えていた銭貨の流通が十二世紀中ごろ、国内で再開されたのは、彼らの対中国貿易に起因するところ大、と考えられている。そのため、ほとんど砂浜状態だった大輪田泊に、波よけ風よけの人工島を築造して、大型船が長期かつ安全に停泊できる港にした。築造は困難を極めたが、経文を書いた大量の石を廃船に積み、船ごと海底に沈めて基礎を造ったという。そこから 「経の島」 の名がついた。
彼は 『平家物語』 などで 「六波羅の入道」 と言われているから、京都東山の六波羅にずっと腰を据えていたとの思い込みがある。
しかし、嘉応元年 (1169) の福原退隠以後、一貫して福原に住み、めったなことでは上洛しなかった。いったいなぜだろうか。
筆者は、当時の政治状況を考えると、後白河院権力に対し、平家の自立 (律) 性を保持する意図が秘められていた、と考えている。平家は平治の乱後の躍進課程で、国家の軍事警察権を手中に収めていった。そしてその平時の現われが、諸国の平家御家人を交代で上京させ、閑院内裏諸門の警護役、すなわち高倉天皇の内裏への番役を勤めさせる体制であった。番とは一定の順番で勤務すること、当番をいう。これが内裏大番制であるが、まさに後年の鎌倉幕府の京都大番役の先駆けをなすものである。
また承安元年 (1171) には娘徳子 (のち建礼門院) を天皇に入内させた。さらに基実の死後盛子を介して摂関家領の大部分を自らの管理下に置いた。
平家一門の官位の昇進も目覚ましい。承安四年 (1174) 七月、重盛は三十七歳で右近衛大将に任じられ、三年後の治承元年 (1177) には正二位内大臣に昇任した。同じ年、時子との間に生まれた三男宗盛が右大将となり、左大将に移った重盛と兄弟で、王朝常置の最高武官である近衛大将を独占した。また同年、宗盛と同腹の知盛 (四男) が従三位になって非参議 (現職の公卿でない) ながら公卿に列する。

「平清盛」 発行: NHK・NHKプロモーション 著:高橋昌明 神戸大学名誉教授 ヨリ
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