惟光が兄の阿闍利 (アザリ) 、婿の参河 (ミカハ)
の守、むすめなど、わたりつどひたるほどに、かくおはしましたるよろこびを、またなきことにかしこまる。
尼君も起きあがりて、
「惜しげなき身なれど、捨てがたく思うたまへつることは、ただかく御前にさぶらひ御覧ぜらるることの変りはべりなむことを、くちをしく思いひたまへたゆたひしかど、忌むことのしるしによみがへりてなむ、かくわたりおはしますを見たまへはべりぬれば、今南無阿弥陀仏
(アミダホトケ) の御光も、心清く待たれはべるべき」
など聞こえて、弱げに泣く。
日頃おこたりがたくものせらるるを、安すからず嘆きわたりつるに、かく世を離るるさまにものしたまへば、いとあはれにくちをしうなむ。命長くて、なほ位高くなども見なしたまへ。さてこそ、九品
(ココノシナ) の上 (カミ) にも障なく生まれたまはめ。この世にすこしうらみ残るは、わろきわざとなむ聞く」
など、涙ぐみてのたまふ。
かたほなるをだに、乳母やうの思ふべき人は、あさましうまほに見みなすものを、ましていと面 (オモ)
だたしう、なづさひつかうまつりけむ身もいたはしう、かたじけなく思ほゆべかめれば、しずろに涙がちなり。
子どもは、いと見苦しきと思ひて、そむきぬる世の去りがたきやうに、みづからひそみ御覧ぜられたまふと、つきじろひ目くはす。
君はいとあはれと思ほして、
「いはけなかりけるほどに、思ふべき人々のうち捨ててものしたまひにけるなごり、はぐくむ人あまたあるやうなりしかど、親しく思ひむつぶる筋は、またなくまむ思ほえし。
人となりて後は、限りあれば、朝夕にしもえ見たてまつらず、心のままにとぶらひまうづることはなけれど、なほ久しう対面せぬ時は、心細くおぼゆるを、さらぬ別れはかなくもがなとなむ
など、こまやかにかたらひたまひて、おしのごひたまへる袖のにほひも、いと所狭きまでかをり満ちたるに、げによに思へば、おしなべたらぬ人の身宿世
(ミ スクセ) ぞかしと、尼君をもどかしと見つる子ども、皆うちしほれたれけり。
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