〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/18 (木) 乃木 希典

第二軍が戦った南山に乃木希典が第三軍の参謀たちと訪れたのは六月六日のことであった。
南山の焼けた山裾がここで起こった激戦を生々しく訴えていた。
それでも足下には花も咲いている。
「野に山に 討死なせし 益荒男の あとなつかしき 撫子の花」
この南山の戦いで乃木の長男勝典も戦死している。
乃木も坂を登る。
しかし、乃木の足もとは常に薄暗い。乃木は左眼が見えないのだ。そのために自然と足もとを見ながらゆっくりと歩く。その左足も若い頃に負傷して引きずるような歩みである。
俯きながらゆっくりと坂を登っていく。用心深く確かめるように、ゆっくりと、そして、足もとの撫子の花には気がつくが、頭上を染める青空を遂に見上げることはなかった。

乃木希典は東京麻布の長州藩上屋敷で生まれ育った。幼名 「無人 (ナキト) 」 。
十歳頃、父親の左遷で長州へ一家は戻される。これより一家は貧窮を味わう。
乃木は左眼が見えない。幼い頃母親に蚊帳の留め金で叩かれたのが原因である。母・寿子はヒステリックな女性で時にその癇癪が爆発して乃木を傷つけた。それが幼い希典にはよく理解できない。希典はいつ豹変するか分らない母親を恐れて育った。
長州に帰ってからの希典を待っていたのは郷土の友達の苛酷な虐めであった。希典の憂鬱はまた一つ増えるのであった。この頃、泣き虫 「無人」 といわれていた。
乃木希典が生まれた嘉永二年からの長州藩はまさに維新の嵐の中にあった。乃木は武士の子に生まれたが心根の優しい資質で他の無邪気な子供達のように、この風雲にあって武将として名を成しえるなどとは思わなかったし、望まなかった。
成長しての乃木がそうであるように詩文の才能は群を抜いていたといえよう。想像力も豊かだった。しかしその想像力は、同時に臆病とか気弱さにも姿を変えるものだ。そして優しい妹思いの兄でもあった。
乃木は文学という当時何の足しにもならない才能で身を立てたいと漠然と夢想していた。
その淡い文学少年の夢を木端微塵に壊したのが叔父にあたる玉木文之進である。彼は吉田松陰の叔父であり、その意味では乃木は松陰とも縁続きにあたる。文之進は松下村塾の創始者で松陰を教え、松陰がその後を継いだ。長州幕末の梁山泪・松下村塾はこれをいう。
松陰の死後、文之進は松下村塾を再開させていたのだが、その叔父に自分の志を父に理解させてほしいと願い出た。ところが、その 「できれば学問で身を立てたい」 という志が文之進の逆鱗にふれてしまう。
乃木は仰天した。なぜここまで激怒するのか理解できなかった。しかし、乃木は幼い頃から相手に強く出られると萎縮してしまう質だった。その戸惑いとは裏腹に自分の思い違いを侘び、どうか門弟にと懇願してしまう。結局文之進の妻の仲介でその日から住み込みで入門するはめになるのだ。
ここで乃木が叩き込まれたものは 「質素、倹約、勤勉」 の教えであった。
当時の江戸末期の武士のあり方としてはピッタリくる教えだったのだろう。というよりも、この文之進は松陰の師であり、その教えは二世代前のものだった。時勢は討幕に傾き、文武農の三道というよりも分化、専門化というのが新しい流れだったようである。

本人の予期せぬ意外な展開から乃木は体で武士のあり方を教え込まれたわけである。
十九歳になって明倫館に入学。しkし、乃木はなかなかモラトリアム期間を抜け出せない。ここでも兵学寮と文学寮の選択に悩む。なんとか学問で生きていけないものかと、まだ模索しているのだが、時代はそんな悠長な時ではない。明治という時代がすでに始まろうとしているのだ。
そして、従兄・御堀耕助 (ミホリ コウスケ) の欧州視察に下僕としてでも随行したい旨を願い出る。
「下僕でもいいとは何事だ!」
ここでも腰の定まらない乃木に 「文人で立つのか、軍人で立つのか」 と御堀からきつく詰問される。
文之進の時もそうだが、希典は相手に厳しく問いただされると途端にそれまでの自分の思いを取り下げてしまう傾向がある。自分自身にビジョンがないというか自身をまったく持てていないのだろう。この件で彼は百八十度考えを方向転換して軍人になる決心をする。
こうして軍人乃木希典が誕生する。第二次長州征伐に参加して小倉口で左足の甲を負傷。生涯足を引きずって歩くことになる。
戊辰戦争が終わると児玉源太郎たちと一緒に日本陸軍の予備施設に入るが、そこで必ずしも士官が約束されているものではないと分ると見切りをつけて長州へ帰ってしまう。この時残った児玉は軍曹から軍隊生活をスタートさせている。児玉との付き合いはこの頃すでに始まっているから古い。
明治八年。長州閥の恩恵を受けて乃木は少佐として任官する。真新しい軍服で記念写真を撮り、少佐の階級をつけて出歩いた。乃木の生涯でこの時が一番嬉しかったそうだ。
しかし、西南戦争では軍旗を奪われるという災難に遭遇する。乃木の指揮官としての問題をここから指摘すると色々と物議を呼ぶので、ここでは災難に遭遇と表記する。
この失態で乃木は深く傷つく。自殺まで考えた。いや未遂だが決行もした。 「乃木が死ぬ」 と親友の児玉も大層心配し奔走した。児玉にとってこの親友は放ってはおけない存在だった。
児玉は乃木の不器用な正確を愛した。この異質な性格の二人の交流は生涯続いていく。この事件は後の日露戦争において、児玉が旅順へ向かう伏線となるのである。

長州閥の恩恵でその後の乃木は順調に昇進していった。しかし、乃木の心には軍規紛失の汚点が今なおしこりになっていた。
乃木の戦下手は定着していた。皮肉にもそれを証明させたのは親友の児玉源太郎である。その頃、児玉も順調に昇進を重ねて乃木と同列の大佐になっていた。二人は連隊長として習志野で演習試合に明け暮れていたが、応変の才に欠ける乃木は毎回児玉に負けている。悪意などないのだがそれを児玉がからかう。 「乃木の戦下手」 と。
もとより、このことは乃木自身が一番知っている。乃木ははにかむように、笑っているのか泣いているのか分らない何ともいえない表情を身に付けていた。乃木にとっては軍隊は自分に不似合いな居心地の悪い場所だったのだろう。
そして、その精神の均衡を保つために鮭に頼った。酔えばその居場所とあり方を確認できたような気分になった。
周囲には酒乱として迷惑をかけてしまい翌日はその顛末から反省を繰り返すのだが、日が経つとまた確認しなければならない衝動に駆られてしまう。
また、母親の寿子が酒乱の質であったことから遺伝もあったのだろうか。結婚してもその癖は直らず、夫人は幼い子を抱いて別居もしている。
その乃木に一つの転機が訪れる。明治十九年のドイツ留学がそれだ。

川上操六と共にドイツに赴いた乃木はドイツ陸軍の勇壮な隊列に目と心を奪われた。
この留学は当然、軍事教育の一環だったが、そこで乃木が学んだものは 「軍人としてのあり方」 であり、 「軍人とはどうあるべきものか」 という軍人精神の具現化であった。それは礼法、服装に及び、スタイリスト軍人・乃木希典がここに再生されたわけである。
高級軍人として現場の指揮官として、本来は戦略・戦術で己を表現しなければならない。それが出来ない乃木にとって精神主義と規律主義は理解できたのだろう。それを体現できる礼法と服装は乃木の肌に合った。それを無能者の絶好の隠れ場所という見方もできるのだが。
帰国後、乃木は変身した。酒も控えた。清廉の人になった。理想的な軍人であろうと努めた。しかし、それで軍人の評価が高まるほど軍隊は甘くない。
日清戦争後、中将となり台湾総督に任命されるが、上手く行政能力を発揮することは出来ず、明治三十一年に休職。再度復職してまた休職、予備役へ編入され、那須野で 「百姓」 としての生活を送っている。
ここでの乃木の評判はすこぶるいい。これで軍人に向かないと本人が一番理解していた乃木希典の軍人生活にも終止符が打たれるはずであった。

硝煙の匂いが漂う南山で乃木は詩を読んだ。
   山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場
       征馬不前人不語 金州城外立斜陽
乃木は常にこうである。第三軍の司令官としてこれより旅順要塞を攻略せねばならないのだが、奥第二軍が強いられた過酷な現実から学ぶよりも詩文として感じ入ってしまうのだ。
海軍は旅順港の要塞砲に守られるロシア太平洋艦隊にてこずっていた。そして、陸軍に陸上からの攻撃を依頼する。そこで第三軍が編成された。司令官は乃木希典である。乃木とその参謀、そして、第三軍の兵士達は、これから旅順に根を張った近代要塞と戦う。
それは生身の人間が肉弾として、鉄とコンクリートを砕かねばならない戦いである。それをやったのが乃木希典と第三軍であった。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ