重剛は安政二年 (1855) 三月三日近江国 (オオミノクニ)
(現滋賀県) の西部、大津と瀬田の中程にある城下町膳所 (ゼゼ)
に、本多藩の儒者杉浦蕉亭 (ショウテイ) の長子として生まれ、幼名を譲次郎
(ジョウジロウ) といい、元服して重剛と改め又号を天台といった。
幼少より神童とうたわれ、六歳で藩学遵義堂の講師に任ぜられ藩主から二人扶持 (ニニンブチ)
を賜った。
この遵義堂での勉学中、儒者高橋坦堂 (タカハシ タンドウ) から受けた薫陶は彼の生涯に大きな影響を与えている。
明治三年 (1870) 十月、時の政府は東京帝国大学の前身である大学南校
(現在の東京大学) を開校、重剛も膳所藩から選ばれて理学部へ入学し間もなく小村寿太郎、宇都宮太郎、千頭清臣
(チガシラ キヨオミ) (後に重剛の妻となった楠猪 (クスイの実兄))
らと国家を論じ合うようになった。
卒業後明治九年夏、第二回留学生として渡英、マンチェスターのオーウェン大学、ロスコー博士のもとで五ヵ年を過ごして帰国した。
明治十五年、二十八歳の若さで一高の前身である東京大学予備門長に抜擢され、教育家としての第一歩をふみ出した。然し当時の西洋文明万能の教育方針とは意見が合わず、欧化思想に対抗して小石川久堅町
(現文京区) の自宅に称好塾 (ショウコウジュク) を開いて青年の教育に力をそそぎ、十八年には予備門長を辞し、井上円了
(イノウエ エンリョウ) 、三宅雪嶺 (ミヤケ セツレイ)
等と雑誌 「日本人」 を出して国粋主義を主張したり、外交問題で政府の弱腰をついて谷干城 (タニ
カンジョウ) 、三浦梧楼 (ミウラ ゴロウ) らと反対運動などを起こした。
明治二十五年七月日本中学校を創立 (現在世田谷区松原に在る日本学園の前身で、明治十八年神田錦町に東京英語学校として誕生、其の後神田大火に類焼し、半蔵門外の麹町山元町に再建
「日本中学校」 と改称したもの) して初代校長となったが、この学校は称好塾とともに、彼がその生涯の精魂を傾けたものといえる。
この学校で学んだ人々の中には、芳沢謙吉、荒木貞夫、吉田茂、牛島謹爾、小坂順造、久留島秀三郎、佐々木弥市、松浦寅三郎、太田政弘、斉藤博、白島敏夫、大隈信常、小川琢治
(湯川博士の父) 、鈴木寅雄 (豹軒) 、佐々木信綱、杉靖三郎、横山大観、小西得郎、吉村公三郎 等々をはじめ、文字通り各界の大物著名人が名を連ねていることも偶然ではない。
又同校が吟詠をクラブ活動としてでなく、教科の一つとして取り入れたことも特異なことである。
彼はこの間文部省参事官、国学院学監などを経て、大正三年 (1914) 四月、東宮御学問所
(トウグウゴガクモンジョ) (総裁元帥東郷平八郎) が設けられる際に、選ばれて御用係に就任。主として帝王倫理学をご進講し、続いて堂七年五月より久邇宮良子
(クニノミヤナガコ) 女王殿下にも同じく帝王倫理学をご進講することとなった。
重剛の赤誠あふれるご進講も東宮御学問所が大正十年二月に終了。同十二年十二月には良子女王殿下へのご進講の終了後、急に病床にふし、大正十三年
(1924) 二月十三日に遂に帰らぬ客となった。
今もなお 「日本学園」 では二月十三日に 「重剛先生景仰会」 が催されていることを付記する。
著書には 「日本精神」 「日本教育原論」 などがある。
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