〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/20 (水) 

行 幸 (十五)
内大臣は、近江の君のこの大望をお聞きになると、からからと大笑いなさって、弘徽殿の女御の御殿に参上なさるついでに、
「どこにいる。近江の君、ここへ来なさい」
と、お呼びになりました。
「はあい」
と、はしたないほどはっきりとお返事して、近江の君が出て来ました。
「ほんとうによくお勤めしている様子だが、これなら朝廷の役人になってもいかにも適任だろう。尚侍の件は、どうしてわたしに早く言ってくれなったのかね」
と、真面目くさった顔付きでおっしゃいます。近江の君はすかkり嬉しがって、
「そのことで御相談し御意見をお伺いしたかったのですが、こちらの女御様が、自然にわたしの気持をお伝え下さるかと、すっかりお頼りしきっておりました。それなのに、ほかになられる方がいらっしゃるとかお聞きしましたので、夢でお金持ちになったようなはかない気がしまして、思わず胸に手を置きました」
と、弁舌爽やかに申し上げます。内大臣は吹く出しそうになるのを我慢なさって、
「まったくはきはきしない妙な癖だね、何でもはっきり言えばいいのに。そんな望みがあるなら、さっさと言ってくれれば、まず第一に、あなたを奏上してあげたのに。源氏の太政大臣の御娘が、どんなに御身分が貴くても、このわたしがたってお願い申し上げたら、帝がお聞き入れ下さらぬことはまずないでしょう。今からでも、申文もうしぶみ を、きちんと作って、せいぜい立派に書き上げて差し出しなさい。長歌などで心得のあるところをお目にかけたら、帝はお見捨てにはならないでしょう。とりわけ情趣を解されるお方だから」
などと、たいそう上手に言いくるめておしまいになります。娘を愚弄するなど、人の親らしくもなく、見苦しいなさいようです。近江の君は、
「和歌は、下手は下手ながら、どうにか詠めましょう。でも表立ったむずかしい申文の方は、大臣からお願い下さいまして、わたしはちょっと言葉をそえるだけにして、お蔭を蒙らせていただきましょう」
と、両手を り合わせて申し上げています。几帳の後ろなどで聴いている女房たちは、死にそうになるほどおかしがっています。吹き出すのを我慢が出来ない女房は、その場からそっと逃げ出して、やっと息をついています。
女御もお顔を赤くなさって、たまらないほどみっともないとお思いでいらっしゃいます。
内大臣は、
「むしゃくしゃする時は、近江の君の顔を見ると、すっかり気が紛れる」
と、もっぱら笑いの種にしていらっしゃいましたが、世間の人は、
「御自分が恥ずかしいから、照れ隠しにわざとああして娘に恥をかかせていらっしゃる」
などと、いろいろに噂するのでした。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ