〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/06 (水) 

野 分 (八)

夕霧の中将は、源氏の君のお供をして、気のはる方々を次々お訪ねして廻って、何だか気分がふさいでしまいました。それで、書きたい手紙なども書かないでいるうちに、日が高くなってしまったので、遅くなったのを気にしながら、明石の姫君のお部屋へいらっしゃいました。
「姫君はまだあちらの紫の上のお側にいらっしゃいます。風をこわがっておびえられて、今朝はまだ起き上がることもお出来になりません」
と、乳母めのと が夕霧の中将に申し上げます。
「ひどい荒れ模様の風だったので、昨夜はこちらで宿直とのい をしようと思っていましたが、大宮がとてもおいたわしそうにしていらっしゃったので、参れませんでした。御人形の御殿は御無事でしたか」
とお訊きになりますので、女房たちは笑いながら、
「扇の風が吹いて来てさえ大変だとご心配なさいますのに、昨夜は今にも吹きこわれそうなほどの大風が荒れました。この御殿のおもり には、全く手を焼いております」
などと話します。中将は、
「何か、大げさでないちょっちした紙はありませんか、それにお部屋のすずり とを」
とお頼みのなりますと、女房は、姫君の御厨子みずし の中から、紙一巻を取り出し、硯箱のふた に入れてさし上げました。
「いや、これではおそ れ多くて」
と、中将はおっしゃいましたが、北の御殿の明石の君の格を考えると、そう遠慮するにも及ばないという気がして、そてに手紙をお書きになります。紙は紫の薄様うすよう でした。墨を心をこめて り、筆の先を注意して見い見いしながら、丁寧に書き、時々筆をとめて書き案じていらっしゃるお姿は、ほんとうにすばらしく見えます。けれどそのお歌は妙に紋切り型で、感心しないお詠みびりでした。

風さわぎ むら雲まがふ ゆふべ にも 忘るるまなく 忘られぬ君
(風が吹き荒れ むら雲の乱れ迷う夕べでも 片時らりとわたしには 忘れようにも忘れられない あなたのことです)
その手紙を風にもまれて吹き折れた苅萱かるかや におつけになったので、女房たちは、
「物語の交野かたの の少将は、紙の色に合わせて花や草の色を揃えましたのに」
と申し上げます。夕霧の中将は、
「そんな色合いのことも、わたしには見分け方がつかなかったのですね。どこの野辺のどんな花がよいことやら」
と、こうした女房たちにも、中将は言葉少なに応対して、相手が打ち解け近寄れるような態度も見せず、まったく気品高く生真面目にしていらっしゃるのでした
もう一通りお書きになって、うますけ にお与えになると、馬の助が可愛らしい童や、使いに馴れた御随身みずいしん などに、ひそひそ声で耳うちして手紙を渡します。若い女房たちは並々でなく気を揉んで、胸をときめかせては宛て先を知りたがっています。
明石の姫君が、こちらへお戻りになるということで、女房たちがざわめき立って几帳を整えたりしています。樺桜にたとえられた紫の上や、八重山吹を連想させた玉鬘の姫君の方々と、こちらの姫君を見比べてみたくなり、夕霧の中将はいつもなら覗き見など全く関心はないのに、無理に妻戸の御簾を引きかぶって、几帳の隙間から覗きました。ちょうど明石の姫君が、几帳や屏風びょうぶ などの側から、通って行かれるところがちらと見えました。女房が大勢右往左往していて、姫君は何もはっきり見えませんので、中将はまったくじれったい思いです。
「薄紫色のお召物に、髪がまだ背丈には届かない長さで、その先が扇を広げたようにふさふさしています。たいそう っそりしてお小さい御体つきは、可憐でいじらしいほどです。
一昨年おととし あたりは、時たま偶然にも、ちらりとお姿をお見かけしたこともあったのに、あれから年とともにまたすっかりお美しく御成長されたようだ。まして盛りのお年頃になられると、どんなに美しくおなりになることか」
と中将は思います。
「前に見てしまったあの紫の上を桜、玉鬘の姫君を山吹とすれば、この姫君は藤の花とでも言おうか、丈高い木から吹きかかって、風に花房がなび いている美しさは、ちょうどこの姫君の感じだ」
と自然に思いくらべられます。
「こんな美しい人々を、思いのままに明け暮れ拝見していたいものよ。お三人とも、自分にとっては親や姉妹なのだから、当然そうすることだって許されるはずなのに、父君が事毎ことごと にきびしい隔てを置いて近づけてくれないのが恨めしい」
などと思うと、中将の生真面目な心も、何かしらそぞろに落ち着かない気分になります。

夕霧の中将が、大宮のお邸に参上しますと、大宮はもの静かにお勤行つとめ をなさっていらっしゃいました。相当にいい若女房なども、この三条の宮にはお仕えしていますけれど、物腰も態度も、衣裳まで、すべてが今全盛の栄華を極めていらっしゃる六条の院の女房とは、比べもになりません。器量のいい尼君たちが、墨染すみぞ めの衣を身にまとった簡素な姿のほうが、かえってこうしたお邸としては、それなりにしっとりした風情があるのでした。
丁度そこへ内大臣もいらっしゃいました。お部屋の明りなどが灯されて、静かにお話しをなさいます。大宮は、
「姫君に長い間会わせて下さらないのが、あんまりひどくて」
とおっしゃって、ただもう泣きに泣かれます。内大臣は、
「近いうちに、つれてお伺いしましょう。自分からふさぎこんでいまして、近頃は惜しいことにすっかりやつれはてているようです。女の子など、はっきり言えば持つべきものではありませんな。何かにつけ、心配ばかりさせられるものでして」
などと、今でもやはりあの事を根に持って、こだわっていらっしゃる感じでおっしゃいます。大宮は情けなくなられて、姫君との御対面のこともぜひにとはおっしゃいません。話のついでに内大臣は、
「まったく不出来な娘を持ちまして、ほとほと手を焼いてしまいました」
と、近江おうみきみ のことをこぼしながらお笑いになります。大宮が、
「まあおかしなことですね。あなたの娘というからには、出来が悪い筈があるものですか」
と、皮肉をおっしゃいますと、内大臣は、
「それが、実はほんとうに出来の悪いのがおりまして、ぜひそのうち何とかしてお目にかけましょう」
と申し上げられましたとやら。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ