この近江の君は、 「父上が女御様のところへ参上しなさいとおっしゃったのに、わたしの気がすすまにふうに見えたら、女御様が気をお悪くなさるだろう。今夜にも参上しましょう。父大臣が、天下にただ一人の者と思ってわたしを可愛がって下さっても、この御姉妹方が冷たくなさったら、このお邸には身の置き所もなくなってしまうから」 とおっしゃいます。御邸内でのこの君の御評判はまったく心細い模様です。 そこで先ず、女御にお手紙をおさし上げになります。 「
<葦垣
のま近けれども逢あ
ふよしのなき> の歌のように、すぐお近くにおりますのに、これまで甲斐もなくてお姿の影を踏むことも出来ませんのは、そちらで来るなと関所をお据え遊ばしたのかと存じます。 <知らねども武蔵野むさしの
>
の古歌の <紫のゆゑ> のように、お目にかかってもおりませんのに、血縁と申し上げるのは畏おそ
れ多いのでございますが、あなかしこ、あなかしこ」 と、くりかえしの点が多い目立つ、いかつい字で書き、紙の裏には、 「そうそう、実は今宵にでも参上しようと思い立ちましたのは、<あやしくも厭いと
ふに映は
ゆる>
の歌のような心でしょうか。いえ、どうも、どうも、見苦しい字は <あしき手をなほよきさまに水無瀬川みなせがわ
> の歌に免じまして」 と書いて、また端の方にこう書いてあります。 |
若草み
常陸ひたち
の浦の いかが崎 いかであひ見む 田子たご
の浦波 (わたしは田舎育ちの 若草の娘よ 常陸の浦や河内のいかが崎 それに駿河の田子の浦
なんとしてでもお逢いしたくて) |
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地名ばかりを並べた支離滅裂な歌の後に、 「
<大川水の藤波の> 並一通りの思いでなくお慕い申し上げております」 と、青い色紙しきし
を二枚重ねたのに、むやみに草体の仮名を使って、ごつごつした筆跡で、誰の書風とも分からないくねくねした書体で書いています。書き方も文字の下半分を長くのばして、妙に気どっています。行なども端の方へ斜めになって歪ゆが
んで倒れそうに見えるのを、御本人は満足そうににんまりして眺めているのです。それでもさすが女らしくたいそう細く小さく巻き結んで、撫子なでしこ
の花につけてあります。 文使いに出した樋洗ひすまし
の女童めのわらわ
は、大そう物馴れてこざっぱりしていますが、新参者なのでした。 女御の御方の台盤所ばんだいどころ
へこの女童が参上して、 「このお手紙を女御様にさし上げて下さい」 と言います。下仕えの女がこの女童を知っていて、 「北の対たい
の近江の君にお仕えしている人なのね」 と言って、お手紙を受け取って入りました。大輔たいふ
の君という女房がその手紙をお取次ぎして、それを開けて女御にお目にかけます。女御は御覧になって苦笑なさり、手紙を下にお置きになられたのを、女房の中納言の君が、お側近くに控えていて、横目でちらちら見て、 「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」 と、いかにも見たそうにしていますので、女御は、 {わたしは草仮名そうがな
はよくわからないせいかしら、これは初めも終わりも何だか、続かないように見える」 と仰せになってお下げ渡しになりました。 「返事は、これと同じように由緒ありげに書かないと、出来が悪いと馬鹿にされるでしょうよ。あなたがすぐお書きなさい」 と、返事を中納言の君に譲ってしまわれます。 あからさまに顔に出さないまでも、若い女房たちは、何となくおかしくてたまらず、皆くすくす笑っています。 使いの女童がお返事をほしがりますので、中納言の君が、 「お手紙は風流な引歌ずくめのようですから、お返事が書きにくくて、代筆と見えてはお気の毒でしょう」 と言って、女御の直筆のお手紙のように似せて書きます。 「お近くにおいでになる甲斐もなく、お目にかかれませんのは、お恨みに存じます」 |
常陸ひたち
なる
駿河するが
に海の 須磨すま
の浦に 波立ち出い
でよ筥崎はこざき
の松 (常陸にある 駿河の海の 須磨の浦に 波が早く立つように 筥崎の松) |
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こちらも負けずに地名ばかりを並べたてて、お出かけ下さいというともりの歌を書いて、女御に読んで聞かせますと、女御は、 「まあ、いやだわ。本当にわたしの歌のように、近江の君がこれを言いふらしたらどうしましょう」 と御心配そうな御様子でしたが、中納言の君が、 「それは聞く人が聞けば、すぐにも分かりましょう」 と言って、手紙を上包みに包んで使いに渡しました。 近江の君はその返事を見て、 「趣のある面白いお歌だこと。松は待つという意味よ」 と言って、たいそう甘ったるい薫物たきもの
の香を何度も何度も着物に焚き染めておいでになります。紅べに
というものを頬ほお
に赤々と塗り付けて、髪を梳す
いて身づくろいしていらっしゃるのは、それなりに明るく陽気で、愛嬌あいきょう
があるというものです。 女御と御対面の場合は、さじかし何かと出過ぎた振舞いもあることでしょう。 |