〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/02 (土) 

常 夏 (十二)

この近江の君は、
「父上が女御様のところへ参上しなさいとおっしゃったのに、わたしの気がすすまにふうに見えたら、女御様が気をお悪くなさるだろう。今夜にも参上しましょう。父大臣が、天下にただ一人の者と思ってわたしを可愛がって下さっても、この御姉妹方が冷たくなさったら、このお邸には身の置き所もなくなってしまうから」
とおっしゃいます。御邸内でのこの君の御評判はまったく心細い模様です。
そこで先ず、女御にお手紙をおさし上げになります。
「 <葦垣あしがき のま近けれども ふよしのなき> の歌のように、すぐお近くにおりますのに、これまで甲斐もなくてお姿の影を踏むことも出来ませんのは、そちらで来るなと関所をお据え遊ばしたのかと存じます。
<知らねども武蔵野むさしの > の古歌の <紫のゆゑ> のように、お目にかかってもおりませんのに、血縁と申し上げるのはおそ れ多いのでございますが、あなかしこ、あなかしこ」
と、くりかえしの点が多い目立つ、いかつい字で書き、紙の裏には、
「そうそう、実は今宵にでも参上しようと思い立ちましたのは、<あやしくもいと ふに ゆる> の歌のような心でしょうか。いえ、どうも、どうも、見苦しい字は <あしき手をなほよきさまに水無瀬川みなせがわ > の歌に免じまして」
と書いて、また端の方にこう書いてあります。

若草み 常陸ひたち の浦の いかが崎 いかであひ見む 田子たご の浦波
(わたしは田舎育ちの 若草の娘よ 常陸の浦や河内のいかが崎 それに駿河の田子の浦 なんとしてでもお逢いしたくて)
地名ばかりを並べた支離滅裂な歌の後に、
「 <大川水の藤波の> 並一通りの思いでなくお慕い申し上げております」
と、青い色紙しきし を二枚重ねたのに、むやみに草体の仮名を使って、ごつごつした筆跡で、誰の書風とも分からないくねくねした書体で書いています。書き方も文字の下半分を長くのばして、妙に気どっています。行なども端の方へ斜めになってゆが んで倒れそうに見えるのを、御本人は満足そうににんまりして眺めているのです。それでもさすが女らしくたいそう細く小さく巻き結んで、撫子なでしこ の花につけてあります。
文使いに出した樋洗ひすまし女童めのわらわ は、大そう物馴れてこざっぱりしていますが、新参者なのでした。
女御の御方の台盤所ばんだいどころ へこの女童が参上して、
「このお手紙を女御様にさし上げて下さい」
と言います。下仕えの女がこの女童を知っていて、
「北のたい の近江の君にお仕えしている人なのね」
と言って、お手紙を受け取って入りました。大輔たいふ の君という女房がその手紙をお取次ぎして、それを開けて女御にお目にかけます。女御は御覧になって苦笑なさり、手紙を下にお置きになられたのを、女房の中納言の君が、お側近くに控えていて、横目でちらちら見て、
「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」
と、いかにも見たそうにしていますので、女御は、
{わたしは草仮名そうがな はよくわからないせいかしら、これは初めも終わりも何だか、続かないように見える」
と仰せになってお下げ渡しになりました。
「返事は、これと同じように由緒ありげに書かないと、出来が悪いと馬鹿にされるでしょうよ。あなたがすぐお書きなさい」
と、返事を中納言の君に譲ってしまわれます。
あからさまに顔に出さないまでも、若い女房たちは、何となくおかしくてたまらず、皆くすくす笑っています。
使いの女童がお返事をほしがりますので、中納言の君が、
「お手紙は風流な引歌ずくめのようですから、お返事が書きにくくて、代筆と見えてはお気の毒でしょう」
と言って、女御の直筆のお手紙のように似せて書きます。
「お近くにおいでになる甲斐もなく、お目にかかれませんのは、お恨みに存じます」
常陸ひたち なる 駿河するが に海の 須磨すま の浦に 波立ち でよ筥崎はこざき の松
(常陸にある 駿河の海の 須磨の浦に 波が早く立つように 筥崎の松)
こちらも負けずに地名ばかりを並べたてて、お出かけ下さいというともりの歌を書いて、女御に読んで聞かせますと、女御は、
「まあ、いやだわ。本当にわたしの歌のように、近江の君がこれを言いふらしたらどうしましょう」
と御心配そうな御様子でしたが、中納言の君が、
「それは聞く人が聞けば、すぐにも分かりましょう」
と言って、手紙を上包みに包んで使いに渡しました。
近江の君はその返事を見て、
「趣のある面白いお歌だこと。松は待つという意味よ」
と言って、たいそう甘ったるい薫物たきもの の香を何度も何度も着物に焚き染めておいでになります。べに というものをほお に赤々と塗り付けて、髪を いて身づくろいしていらっしゃるのは、それなりに明るく陽気で、愛嬌あいきょう があるというものです。
女御と御対面の場合は、さじかし何かと出過ぎた振舞いもあることでしょう。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ