〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/22 (水) 

胡 蝶 (十)
女君もお年こそ召していらっしゃいますものの、男女の恋に経験がないだけでなく、いくらかでも恋馴れた人の有り様をさえ見聞きなさったこともないので、男と女の接し方にこれ以上のことがあろうとは想像も出来ません。全く思いもよらないことのある世の中よと、悲しくて、気分もひどく悪くなりましたので、女房たちは、
「御病気のようだけれど」
と、どうしてよいか困っています。
「源氏の君のなさいますことは、まことにこまやかに行き届いて、もったいないほどでございますよ。ほんとうの親御さまでも、これほどまでに至れり尽くせりというようなお世話話はなされないでしょう」
など、乳母子めのとご兵部ひょうぶ なども、そっと申し上げたりしますので、姫君はいっそう心外で、源氏の君のいやらしいお気持にはほとほと愛想が尽き果てて、自分の身の上が情けなくてなりません。
明くる日の朝、源氏の君から御手紙が早々と届きました。玉鬘の姫君は御気分が悪いと臥せっていらっしゃいましたけれど、女房たちがおすずり などをさし上げて、
「お返事を早く」
とおせかせしますので、しぶしぶお手紙を御覧になります。見た目にはあっさりした実用的な感じの白い紙に、たいそう見事にいたためられています。
「ととえようもない昨夜のひどいお扱いの、情けなかったことが忘れられません。女房たちが何と思ったことでしょう」
うちとけて 寝も見ぬものを 若草の ことあり顔に むすぼほるらむ
(すべてをゆるしあい 共寝をしたわけでもないのに 若草のようなあなたは どうして意味あり顔に 思い悩んでいらっしゃるのやら)
まったくまだ子供じみていらっしゃるのですね」
と、さすがに親ぶったお言葉も、昨夜のことを思うと姫君はほんとに憎らしいと思われますが、お返事をしないのも、女房たちが怪しむだろうと、こわごわした殺風景な陸奥紙みちのくがみ に、ただ、
「お手紙拝見いたしました。気分が悪うございますので、お返事は失礼いたします」
とだけお書きになります。源氏の君はそれを御覧になって、こういうところは、やはりいかにも堅苦しくぶっきらぼうだと苦笑しながら、これなら恨み言を訴える手応えもありそうに思われるのも、ほんとうに困ったお心ですこと。
いったんお心のうちを打ち明けておしまいになってからは、<太田おほた の松の大方は色に出でてや> の歌ではありませんが、廻りくどい思わせぶりどころでなく、うるさく言い寄られることが多くなりましたので、女君はますます追いつめられた思いで、身の置き所もないような悩みに取り付かれて、とうとうご病気にさえんられました。
こうして、事の真相を知る人は少なくて、世間の人も、身近な者も、源氏の君をまったく実の親と思い込んでいるので、女君は、
「もしこんな気配が少しでも世間に漏れ噂になれば、どんなにひどく物笑いにされ、悪評が立つことだろう。父内大臣などが、わたしを探し出して下さっても、それでなくても親身になって下さるお気持はないように思われるから、こんなことを知られたら、まして浮ついた女だとひどくおさげす みになることだろう」
と、何につけても心配で、思い悩んでいらっしゃるのでした。
兵部卿の宮や髭黒の右大将などは、源氏の君の御意向が、全く望みがないというのでもないと人伝ひとづて にお聞きになって、ますます熱心に思いを込めたお手紙をお寄こしになります。
「岩漏る水に」 の歌をお届けになった内大臣家の柏木の中将も、源氏の君がお認めになっているということをみるこからほの かに聞いて、本当の姉弟という事情は知らず、ただもう一途に嬉しくて、懸命に恋の怨み言を訴えたお手紙を書いては、姫君のまわりをうろうろしているらしいのです。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ