〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/02/15 (月) 

花 散 里 (二)

目ざすお方の所は、全く想像しておられた通りで、人影も少なく、ひっそりといていらっしゃる御様子を御覧になるにつけても、たいそうもの哀れな感じでした。
まず女御のお部屋で、故桐壺院の御在世中の昔話などを申し上げるうちにも、夜が けてしまいました。五月二十日の月がさし昇ります、高くそび えた木立の影などがいっそう小暗おぐら く見渡されて、お庭の近くからたちばな の香りがなつかしく漂ってきます。
女御の御様子は、お年は召していらっしゃいますが、あくまで奥ゆかしく、上品で可愛らしいのです。故院の御在世の頃は、特にほかの方々よりきわ立った、はなやかな御寵愛こそありませんでしたけれど、故院が、気のおけない好ましいお相手だとお思いになっていらっしゃったのに、などと、源氏の君は思い出されるのにつけても、昔のことが次々にしの ばれて、思わずお泣きになるのでした。
ほととぎすが、さきほどの女の家の垣根にいたものでしょうか、あれとそっくりの声で鳴いています。自分の後を慕って追って来たのかとお思いになる御様子も、優艶でした。
<ほととぎすいかに知りてか古声ふるごゑ のする>
などと、小声で古歌を口ずさまれます。

橘の をなつかしみ ほととぎす 花散里はなちるさと を たづねてぞ
(昔を思い出させる 橘の香を懐かしみ ほととぎすのようにわたしも 橘の花散る邸を 探して訪ねてきたのです)
とお詠みになられて、
「故院御在世の昔にことを忘れられない心を慰めるには、やはりこちらへお伺いするべきでございました。こちらに伺いますと、この上もなく愁いも慰められ、また悲しみの数が添うこともたくさんございます。人は皆時勢の流れに従って移り変わるものですから、昔を思い出してはしんみりと語り合う相手も、次第に少なくなってまいります。ましてこちらでは、近頃のお淋しさを慰めがたくお思いでいらっしゃいましょう」
と申しあげられても、今さら甲斐ないこの御時世ですけれど、しんみりともの思いにふけっていらっしゃる女御の御様子の、一通りでなく趣深く拝せられますのも、お人柄のせいでしょうか、源氏の君にひとしおお哀れが添うのでした。
人目なく 荒れたる宿は 橘の 花こそ軒の つまとなりけれ
(訪れる人もなく 荒れはてたこの宿の 軒端に咲いた橘の花 昔をしのばせるその匂いが あなたの手引きをしてくれて)
とだけおっしゃいましたが、やはり他の女君とはちがっていて秀れていらしゃるお方だと、源氏の君はついお比べなさるのでした。

西側のお部屋には、さりげなく忍びやかに、お訪ねなさいました。御来訪が珍しい上に、世にもなたとない源氏の君のお美しさなので、女君は日頃の恨めしさもついお忘れになるのでしょう。源氏の君は、例のように、あれこれとおやさしく細やかにお話なさるのも、まんざらお口先だけのお言葉でもないのでしょう。
かりそめにも関りを持たれた女君は皆、並々のお人ではなく、それぞれの点で、取り柄もないと思われる方はないからでしょうか、お互いに憎からず思って、情を交し合ってお過ごしになるのでした。中には、そうした淡々とした仲を不足に思う人もいて、とかく心変わりして離れてゆくことがあっても、それもまた、ありがちな当然の世の習いだと、源氏の君は達観していらっしゃるのでした。
さきほどの中川の垣根の女も、そうしたわけから、心変わりしていった一人なのでした。
源氏物語 (巻二) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ