〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/11 (水) 

全 民 衆 の 道 徳 的 基 準

武士道精神が、いかにすべての社会階級に浸透したかは、 「男伊達おとこだて」 として知られたある種の侠客きょうかく 、すなわち民衆の中から自然に生まれた指導者の成長によっても示される。
彼らは頼りがいのある男で、頭のてっぺんから足のつま先まで、豪快な男の力を備え、民衆の権利の代弁者であり、かつ保護者であった。彼らはそれぞれ数百、数千の子分を持ち、これらの子分は、武士が大名に対してそうであったのと同じように、喜んで 「手足と生命、身体、財産および世間的栄誉」 捧げ、彼らに仕えた。過激で短気な働く大群衆の指示を背にして、これら自然発生的な 「親分 bosses 」 たちは、日本差し階級 (武士) の専横をずいぶん抑制した。
武士道は、最初発生した社会階級から多様な道をたどって下っていき、大衆の間に酵母のように作用し、全民衆に対して道徳的基準を提供した。武士道は、当初はエリートの栄光として始まったが、時とともに国民全体のあこがれとなり、鼓舞するものとなった。そして平民は、道徳的には武士の高みにまでは達しなかったけれども、 「大和魂すなわち日本の魂は、ついにこの島国の民族精神を表現するに至った。
もし宗教というものが、マシュー・アーノルドの定義したように、「感情によって呼び起こされた道徳」 にすぎないとすれば、武士道以上に宗教の列に入る資格を持った倫理体系は稀である。本居宣長は、この国民の無言の言葉を表現して詠じた。

敷島の 大和心を 人問はば  朝日に匂ふ 山桜花
(大和心とは何かと人が尋ねたら、朝日に照り映える山桜の花だと答えよう。)
そう、桜は昔からわが国民が愛する花であり、わが国民性の象徴であった。特にこの歌人が用いた 「朝日に匂ふ山桜花」 という語に注意されたい。
大和魂は、弱い栽培植物ではなく、自生の野生植物である。大和魂は、日本の国土に固有のものである。その性質は他の国の花と共通のところもあろうが、その本質はあくまでわが風土に固有な原生・自生の植物である。
しかし、桜が日本原産であることが、私たちが花を愛する唯一の理由ではない。その洗練された優雅な美しさは、他のどの花にもましてわが国民の美的感覚に訴える。
ヨーロッパ人がバラをほめたたえる気持ちを、私たちは共有できない。バラは、桜の単純さに欠けている。またバラが、甘美さの下にとげく を隠していること、生に強く執着し時ならずも散るよりはむしろ茎の上で朽ちることを選び、まるで死を嫌い恐れているようであること、派手な色彩、濃厚な香り ── こららすべては桜と著しく違う性質である。
わが桜花は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶ時にいつでも生を捨てる準備ができている。その色は華美ではなく、その香りは淡く、人を飽きさせない。色彩と形状の美しさは、外観に限られる。色彩と形状は固定した性質である。これに対し香りはうつろいやすく、生命の息のように天上にのぼる。
それゆえ、すべての宗教儀式において、こう没薬もつやく は重要な意味を持つ。桜の芳香にはなにか精神的なものがある。太陽が東からのぼってまず極東の島々を照らし、桜の芳香が朝の空気に薫る時、その息吹を吸い込むことほど、心が澄み爽快な感覚はない。
創造主自身が、甘い香りをかいで新しい決意を固めたと記されている (創世記八の二一)
そうであるならば、桜花のかおる季節に、全国民がその小さな家から誘い出されたとしても何の不思議もない。
たとえ彼らの手足がその苦労を忘れ、彼らの胸が悲哀を忘れても、彼らを非難してはならない。短い快楽が終われば、彼らは新しい力と新しい決心とを携え、日常の仕事に戻るのである。このように、桜がわが国民の花である理由は一つにとどまらない。
それならば、このように美しくじゃかない、風に吹かれるままに散るゆく花、淡い芳香を放しつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の形なのか? 日本の魂は、それほど脆く滅びやすいものなのだろうか。
『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ