しかしながら、私たちがもっとも関心を寄せる問題はこれである。──
武士道は、刀の無分別な使用を正当とみなすか? その答えは、断じて否でる! 武士道は、刀を適切に使うことを大いに重んじ、その濫用を戒め、嫌悪した。必要もないのに刀をふるう者は卑怯者であり、虚勢張る者とされた。冷静沈着な人は、刀を用いる正しい時を知っているが、そのような機会は稀にしか来ない。 勝海舟伯の言葉に耳を傾けよう。彼は、わが国の歴史上もっとも激動の時代をくぐり抜けた人である。当時は暗殺、自殺、そのほか血なまぐさい事が日常茶飯事だった。彼は、一時ほとんど独裁的な権力を委ねられていたため、たびたび暗殺の目標とされたが、決して自分の刀を血まみれにはしなかった。彼は、独特の平民的な口調で、その思い出のいくつかを一人の友人
(巌本善治) に話している ( 『海舟座談』 ) 。 「俺は人を殺すのが嫌いで、一人も殺しちゃいないよ。首を切らなきゃいけない者も放っておいた。一人の友人
(河上彦斎
) が、ある日、私に言った。 『あなたはそう人を殺しなさらぬ。かぼちゃでもナスでも、あなたはちぎって食べませんか? そう あいつらはそのくたいのものです』
しかし、彼は殺された。俺が殺されなかったのは、殺すことが嫌いだったからかも知れん。刀の柄をきつく結んで、なかなか抜けないようにしてあった。人に斬られても、自分は斬らぬという覚悟だった。そうそう、ノミや蚊だと思えばいい。──
刺したからって何がある? 少しかゆいが、それだけだ。命に関わりはしない。」 これが、逆境と勝利の燃えさかる炉の中で、みずからの武士道教育が試された人の言葉である。
「負けるが勝ち」 というよく知られた諺があるが、これは真の勝利は無分別な相手に抵抗しないことにあるという意味である。 「最上の勝利は、血を流さずに勝つことである」
など、その他同様の意味の諺があるが、これらはいずれも武士道の究極の理想が、平和にあることを示している。 この高い理想が、もっぱら僧侶や道学者のの説教に委ねられ、武士が武芸の修練やその賞賛に明け暮れたのは、大いに残念なことだった。これによって、彼らは、女性の理想像をさえアマゾネス的性格に着色することになった。ここで一章を、女性の教育および地位の問題について割くことにしよう。
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