今日ならば、主として数学の学習によって促されるたぐいの知的訓練は、文学の評釈と道徳をめぐる討論によって与えられていた。青少年の教育の主目的は、すでに述べたように人格の形成だったから、抽象的問題が彼らの心を悩ますことはほとんどなかった。 単に博学だけの人は、たいして尊敬を得られなった。ベーコンが学問の三つの効用としてあげたもの
── 歓び、飾り、そして能力 ── にうち、武士道は、ためらわず最後のものを選んだ。 それは、学問の利用が、 「判断と用務の処理」 にあったからだ。公務の処理のためであれ、自制の訓練のためであれ、教育が行われたのは、何らかの実用的目的をめざしたからだった。孔子は言う、
「学んで思わざればすなわち罔く、思うて学ばざればすなわち殆
し」 と。 知識ではなく品格が、頭脳ではなく精神が、訓練啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は聖職的な性質を帯びる。 「われを生んだのは父母である。われを人と成すのは師である。」 こうした通念があって、教師たる者の受ける尊敬はきわめて高いものだった。青少年はこのような信頼と尊敬の念を呼び起こす人は、必ず優れた品格と学識を兼ね備えていなければならなかった。教師は、父なき者の父でああり、迷える者の助言者だった。
「父母は天地のごとく、師君は日月じつげつ
のごとし」 と、わが国の格言は言う。 あらゆる種類の仕事に対し報酬を得るという現代の方式は、武士道の信奉者の間ではとられていなかった。金銭と関係なく、値段の付けられない仕事があることを、武士道は信じた。 僧侶の仕事にせよ、武士の仕事にせよ、精神的な勤労は金銭で報いられるべきではなかった。それはそれに価値がないからではなく、金銭で測れない価値があるからである。 この点において、数学では説明できない武士道の名誉の本能は、近代の経済学以上に真実の教えを与えた。 賃金や俸給は、その結果が具体的で、わかりやすく、定量的なたぐいの仕事に対してのみ支払われる。しかし教育においてなされる最善の仕事
── つまり魂の啓発 (これには僧侶の仕事も含まれる) ── は、具体的で計測可能なものではない。測れないから、価値の表面的な尺度である貨幣を用いるのに適さないのである。 弟子が、一年のいろいろな折に、教師に金品を贈ることは慣例上認められていた。これは支払いでなく、贈り物であった。実際それは、教師も喜んで受け取った。というのも、教師というものは、通常、清貧を誇る厳格な人物で、自分自身の手をもって労働するには威厳がありすぎ、物乞いするには自尊心が高すぎたからである。 彼らは、逆境に負けない高邁な精神の威厳ある権化だった。彼らは、あらゆる学習の目的と考えられたものの体現者であり、サムライにあまねく要求された修練中の修練である克己こっき
self-control の精神の、生きた模範だった。 |