〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/03 (火) 

名 誉 を 欲 し た 武 士 の 少 年

度量、忍耐、寛大という点について、これほど崇高な高みにまで到達した者がごく稀であったことは、認めなければなるまい。名誉の構成要素について、明確で一般的なことは何ひとつ語られなかったのは残念なことである。ただ、少数の物のわかった人たちだけは、名誉は境遇から生ずるのではないこと、それを各人がみずからのの役割を十全に果たすことにあるということを悟っていた。
なぜなら青年は、平時に学んだ孟子の言葉を、行為に熱中しているさなかにはいとも容易に忘れてしまうからだ。孟子は、こう言う。
「貴きを欲するは人の同じき心也。人々己に貴きものあり、思わざるのみ。人の貴くするところのものは良貴りょうき に非ざる也。趙孟の貴くする所は、趙孟能くこれを賎しくす (貴を欲するのは誰も同じである。しかし本当に貴いものは自分の心の中にあるkとを知らない。人が貴いと言うものは良貴ではない。春秋時代の晋の趙孟が獲た名誉は、趙孟自身が貶めてしまった)
後で見るように、おおむね侮辱に対しては、人はただちに憤激し、死をもって報復した。
それにひきかえ名誉は ── らだの虚栄や世間的賞賛にすぎないことがほとんどだが ── 人生の最高の善として貴ばれた。富や知識ではなく、名声こそが青年の追究すべき目標だった。
多くの少年は、親の家の敷居から踏み出すとき、世の中で名を成すまでは再びこれをまたぐまいと心に誓った。そして多くの望みを抱いた母親は、その息子たちが、諺に言う 「故郷に錦を飾る」 のでなければ、再び会おうとしなかった。恥を免れ、名を得るためなら、サムライの少年たちはどのような欠乏をも耐え忍び、精神的、肉体的苦痛のもっとも苛酷な試練にも耐えた。
彼らは、少年の時代にかちとった名誉は年齢を重ねるとともに成長することを知っていた。
大坂冬の陣の時、家康の年少の息子の一人 (徳川頼宣) は、先鋒に加えられることを熱心に懇望したにもかかわらず、後備に置かれた。城が落ちた時、彼は無念のあまりに激しく泣いた。老臣の一人が、出来る限りの手を尽くして彼を慰めようとして、 「今日、戦いに参加できなくても、お急ぎにならないでください。一生の間にはこのような戦いが何度もあるでしょう」 といさ めた。しかし、彼はその老臣をにら んで、 「私の十三歳の時が二度とあるか!」 と言った。
もし名誉と名声を得られるならば、生命でさえ安価だと考えられた。それゆえ、生命より価値があると考えるに足るものがあえrば、きわめて心穏やかに、そしてすみやかに生命を棄てたのである。
いかなる生命の犠牲を払っても高価すぎることはないと考えられたものの中に、 「忠義」 があった。これは封建的な諸道徳を結んで均整のとれたアーチを形づくる要石かなめいし だった。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ