〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/02 (月) 

正 直 と 名 誉

武士道は、 「これに対してあれ」 という代償的な報酬の原理を否定するが、狡猾な商人はこれを受け容れる。信はその発展を主として商工業に負う、とレッキーが言うのはまったく正しい。ニーチェの言うように、正直はいろいろなコの中でももっとも若い ── 換言すれば、それは近代産業の子供である。母のない信は、もっとも教養ある人々だけが養育できる高貴な生まれの孤児のようなものである。
サムライにとって正直であるのは普通のことだったが、より平民的で実利的な養母はいなかったため、その幼い子供は成育で出来なかったのである。
産業が発達するにつれて、信は実行することが簡単な、いやそれどころか有益なコであることがわかってくるだろう。しかし、考えてみよ、── ビスマルクがドイツ帝国の領事に訓令を発し、「とりわけドイツ船積みの貨物には、明らかにその品質および数量に関し嘆かわしいまでの信用の欠如はあること」 について警告したのは、一八八〇年十一月のことだったのである。
しかし、今日は、ドイツ人の不注意や不正直を商取引の場で耳にすることは比較的少なくなった。この二十年の間に、ドイツの商人は、結局正直が損にならないことを学んだのである。すでにわが国の商人もこのことを発見した。
このあとについては、私は読者に対し、この論点について的確な判断を下すのに役立つ二著 (ナップ 『封建日本と近代日本』 第一巻、四章。ランサム 『移行期の日本』 第八章) を薦める。
なお、これに関連し、商人の債務者にとってさえ、正直と名誉が約束手形という形で提出できるもっとも確実な保証であったと述べることは、興味深く思われるだろう。 「貸していただきたい金子の返済を怠った時は、衆人の集まる席で笑っていただいてもかまいません」 とか、 「返済しなかった時は、馬鹿と嘲ってください」 とかいうような文言を書き入れることが、きわめて日常的なことだったのである。
私は、武士道の信が勇気以上の高い動機を持つだろうかと、しばしば自問してみた。日本では偽りの証言をしてはならないという積極的な戒めが存在していないため、嘘をつくことは罪として断罪されず、ただ弱さとして非難され、弱さゆえにはなはだしく不名誉なこととされた。
事実、正直という観念は、名誉と不可分に混じり合っている。そのラテン語とドイツ語の語源は 「名誉」 と同じである。ここでいよいよ、武士道の名誉観をめぐって考察すべき時が到来してのである。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ