〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/10/23 (金) 

神 道 ── 武 士 道 の 源 泉 A

仏教が武士道に与えなかったものは、神道 Shintoism が存分に補った。他の宗教では説かれることのない主君に対する忠、祖先への崇拝、親への孝は、神道の教義によって武士道に注入された。これにより、サムライの傲岸不遜な性格に謙譲の念が生まれたのである。
神道には、キリスト教にあるような 「原罪」 という教義はない。むしろ逆に、人間の魂の生まれながらの善良さと神のような純粋さを信じ、魂を神の意志が宿る器として崇めている。
神社を参拝する者は、誰もがすぐに、礼拝の対象物や装飾的な道具がきわめて少ないことに気づくだろう。本殿に置かれている一枚の鏡だけが、主要な神具である。
鏡の意味は、簡単に説明できる。鏡は、人の心を映すものである。人の心が完全に澄んでいれば、そこに神の姿を見ることが出来る。そのため、神社の前に立って拝む時、人は自分自身の姿が鏡の輝く表面に映るのを目にするのであり、拝むことは、古代ギリシャのデルフォイの神託 「汝自身を知れ」 に通ずるところがある。
しかし、自分を知ることは、ギリシャの教えにおいても日本の教えにおいても、人間の身体の各部分について知ることではなく、解剖学や精神物理学の知識を得ることでもない。
その知識は、道徳に関するもの、つまり私たちの道徳的本性を内省することでなければならない。
ドツの古代史家モムゼンは、ギリシャ人とローマ人を比較して言った。
「ギリシャ人が拝むときは、目を天に向ける。彼らの祈りは観察だからである。ローマ人は頭にベールかける。それはその祈りが内省的だからである。」
日本人の内省は、ローマ人の宗教に対する考えと同じだが、個人の道徳意識よりも、民族的な意識が目立つ。
神道の自然崇拝は、国土を私たちにとって心の奥底からいとおしく思える存在にした。
また神道の祖先崇拝は、次々と系譜をたどってゆくことで、ついに天皇家を民族全体の起源とした。
私たちにとって国とは、金を掘る土地や、穀物を収穫する耕地以上のものである。そこは、神々、すなわち私たちの祖先の霊がすむ神聖な場所である。私たちにとって天皇とは、単に法治国家の主権者や、文化国家の擁護者以上の存在である。天皇は、彼の人格の中に天の力と慈悲を帯びる。地上における生きた天の神の代理人なのである。
イギリスの王室について、フランスの教育者ブートミーは、 「それは権威を示すだけでなく、国民統合の創始者であるとともにその象徴である」 と言っている。私はこの考えに賛同するが、同時に日本の皇室においては二倍にも三倍にも強調すべきことだと考える。
神道の教義には、わが民族の精神面での二つの特徴が含まれている。愛国心と忠誠心である。
アーサー・メイ・クナップは、 「ヘブライ文学では、作者が神のことを語っているのか、それとも国家のことなのか、天国のことなのか、エルサレムのことなのか、救世主なのか、その民族なのか、これらを見分けることがしばしば困難である」 と正しく指摘している。
このような混乱は、神道の用語にも見られることに気がつく。
私は考えがあって混乱と言ったが、論理的な思考を持った人からすれば、神道は用語のあいまいさゆえに、そう見られても仕方がないからである。だが、国民の本能と民族的感情の枠組みとなっている神道は、体系的な哲学や合理的な教義を必要としていないのだ。
この宗教 ── あるいはこの宗教が体現している民族的感情といったほうがより正確かもしれないが ── は、武士に対して、君主への忠誠心と愛国心を徹底的に吹き込んだ。これらは、教養というよりも感情を衝き動かす何かとして作用した。
おそらく神道は、中世のキリスト教の教会とは違って、信者に対してほとんどなんの信仰上の約束事も規定せず、そのかわりに、まっすぐで単純な行基準の形式を与えたのである。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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