〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/10/22 (木) 

武 士 道 の 礎 石

戦闘におけるフェア・プレイ! この野蛮で子供らしい素朴な感覚の中に、いかに豊な道徳性の萌芽があることだろう。これこそ、あらゆる文武の徳の源泉ではないだろうか。
イギリスの少年トム・ブラウンの、 「小さな子を決していじめず、大きな子供に背を向けなかった奴という名を残したい」 という子供らしい願いを見て、私たちはほほえむだろう (まるで私たちがそんな願いを卒業したかのように!) 。
しかし、これこそ壮大な規模の道徳的建築が築かれる礎石そせき であることを、知らない者がいるだろうか。もとも穏やかで、もっとも平和を愛する宗教でさえ、この願いを認めているのではないだろうか。このトムの願いこそ、偉大なイギリスの大半が建つ基礎である。そして武士道も、この礎石の上に建っていることが、やがてわかるだろう。
クエーカー教徒が言うように、戦闘というものは本来、攻撃だろうが防御だろうが、野蛮で悪いことだというのは正しい。しかし、私たちはなお、ドイツの劇作家レッシングにならって、 「私たちの大きな過ちの中でも、美徳が湧き出ることを知っている」 と言うことが出来るだろう。
「陰口を言う者」 や 「臆病者」 という言葉は、健全でかつ純粋な性格の者にとっては、もっとも侮辱的な悪口だった。少年は、このような観念とともに歩み始める。それは武士も同様である。
しかし生活範囲が広がり、人間関係が多方面に及ぶようになると、当初の信念は、それ自体を正当化し、満足させ、発展させるために、より高い権威とより合理的な根拠からの支持を求める。もし、軍事的な論理のみで、より高い倫理的な支えがなかったとすれば、武士に理念が 「武士道」 という道徳にまで高められることはなかっただろう。
ヨーロッパでは、キリスト教が騎士道に都合よく解釈されたが、それでもキリスト教は騎士道に精神的な徳目を注入した。
「宗教、戦争、そして栄誉は、完全なるキリストの騎士の三つの魂である」 とフランスの詩人ラマルティーヌは言っている。日本においても、武士道の源泉となった要素がいくつかある。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ