〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/13 (日) 

鬱 陵 島 (八)

この仕事は、よほど勇気が要った。
塚本克熊中尉が敵艦に乗り込むために先方は人質として四人の士官を送ってきている。しかし敵艦内にいる兵員の中で、発作的にどういう行動に出る者が飛び出すかわからないのである。
塚本は銃剣を持った兵員十人を連れてベドーウィに乗り込んだ。
案外、武装解除はすらすらといった。上甲板はそれでよかったが、塚本としては艦内を全部検分しておかねばならず、艦の下の方へ降りようとした。
ところが、大きなロシア水兵が 「入るな」 とさえぎ るような態度を示した。塚本はかまわずに入った。ある部屋の入口にも、ロシア兵が何人か立っていた。その連中が、拝む真似をして入ってくれるな、と哀願するのである。その連中が口々に喋っていたが、塚本にはもちろん意味が通じない。ただ、
「アミラル、アミラル」
という言葉が、耳にひっかかった。英語で言う提督アドミラル のことではないかと思い、扉を開けて入ると、薄暗い電燈の下で、頭を繃帯で覆った人物がベッドに せっていた。軍服の金モールが見えた。そのまわりにも四、五人の金モールの人物が立っていた。塚本はまさかと思ったが、
「彼はロジェストウェンスキー中将であるか」
と、英語で聞いた。立っている金モールの何人かがイエスとうなずいたので、塚本は戦闘中もおぼえなかった異様な戦慄が胴を走った。とりあえず本艦に手旗で連絡した。
「そんなはずがない、と私は思いました」
と、相羽の語った速記が残っている。相羽は提督が旗艦スワロフと運命を共にしたはずだと思っていたのである。
「連れて来い」
と、相羽は信号した。塚本はその信号どおりに金モール (幕僚) の一人にそう命ずると、その幕僚は拝む真似をした。提督は重傷の身である、という。
結局は曳航することにした。
ロープを渡す作業が終了して現場を出発したのは夕闇せまるころである。
一晩、走った。
(万一のことがあれば撃沈するまでだ)
と相羽は思っていたが、たしかに気味が悪かった。もし敵の巡洋艦でも出現すれば駆逐艦など一たまりもなくやられてしまう。
二十九日の夜が開けたころ、後方沖合いに巡洋艦が一隻煙をはいていた。みると、三等巡洋艦の明石 (二七五五トン) だった。宇敷甲子郎大佐を艦長とするこの巡洋艦は駆逐艦や水雷艇の保護者として二十七日の夜以来、じつによく働いていた。相羽は迷子が母親に出遭ったような気がした、と語っている。すぐさま明石にすべてを通報した。明石の宇敷艦長は驚き、これを無電で三笠に打った。
(本当だろうか)
と、真之はその電文を見ながら首をひねったほどだった。海戦の水域で敵の司令官を拾うなどという話は先例にないことだったし、そういう空想小説の書き手でもここまでの設定は現実感リアリティ を失うとして抑制するかも知れないほどの事実だったからである。
結局、ベドーウィを佐世保まで引っぱって行き、ロジェストウェンスキー提督を佐世保海軍病院に入院させた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ