スワロフの後部艦橋にいたセミョーノフは、開戦数分後に、艦尾にいた十二、三人の信号兵が、右舷六インチ砲のまわりに肉片をまきちらして全滅してしまっていることを知った。 (たった数分の間に) ということが、セミョーノフを戦慄させた。日本艦隊の射撃能力は、ロシア軍のそれをゆう
に三倍以上であることを知った。日本側は備えつけの砲の数だけを持っているのではなかった。その能力によってその三倍の砲門を持っているにひとしかった。 セミョーノフ中佐は後部艦橋にこれ以上いることの危険さを感じた。しかしすぐ、危険などは艦内のどこにいても平等に訪問してくることに気づき、 (いっそ、前部の指令塔へ行こう) と思った。ひとつには記録者として、ロジェストウェンスキーや旗艦艦長のイグナチウスの奮闘ぶりを見ておこうと思ったのである。 彼は肥った上体をまるくして、細い脚を気ぜわしく動かして上甲板を前部に向かって走った。 途中、いくつもの死を見た。とくにほんの十分ばかり前に口をきいた信号長が、五体を上甲板に散乱させて倒れていにを見たが、べつに感動はおこらなかった。だがその血糊ちのり
のために足をとられてあやうく転倒しそうになった。 指令塔は、厚い装甲の壁と鉄の蓋ふた
で鎧われていた。その窓から、ロジェストウェンスキーはやや猫背になってのぞいている。舵輪のそばには、二人の人間がたおれていた。 ひとりは操舵員で、一人は砲術長のベルセーネフ中佐だった。ベルセーネフは頭をやられていた。おそらく即死だったに違いない。 この艦隊の中でもっともすぐれた船乗りである艦長のイグナチウス大佐は、その天賦の美質である快活さを失ってはいなかった。 「どうでしょう」 と、イグナチウス艦長は、双眼鏡をのぞいているロジェストウェンスキーに話しかけた。 「すこし各艦の間隔を変えたほうがよさそうですな。だいぶ敵弾が中あた
りすぎているようですから」 と言ったが、ロジェストウェンスキーは賛成しなかった。彼は陣形に修正を加えるということが自分の艦隊にとっていかに大儀なものであるかを知っていた。 「こっちの弾だって中っているのだ」 と、提督は言った。ロシアの徹甲弾は日本の軍艦に突き刺さって艦内に入ってから爆発するために煙も火災も見えない場合が多い。 (のん気なものだ) と、ロジェストウェンスキーの賛美者であるセミョーノフもこの時ばかりは腹立たしく思った。この指令塔の連中は、今艦内がどれほど悲惨な状態にあるかを知らないのだと思ったのである。 セミョーノフは指令塔を出て、艦橋へのぼった。ここからは戦場が一望のもとに見えた。 彼がこの艦橋にのぼったとき、東郷艦隊はその十五分を要する回頭運動を終了したばかりであった。まだ東郷は本格的な砲戦を行っていないその十五分間のあいだでさえ、旗艦スワロフは右のような状況になっていた。 |