〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/05 (水) 

運 命 の 海 (三)

海戦史上、片岡の第三艦隊ほど捜索部隊としての能力を高度に発揮した例はなかった。
「敵を見ざる前に敵の陣形その他を知ることが出来た」
という旨の大本営への報告文を、のち秋山真之起草で東郷が出している。
「敵は二列縦隊でやって来る」
という旨の無電が片岡から入った。
しかし整然たる二列縦隊といえるかどうか。
ロジェストウェンスキーはじつは定石じょうせき 通りに単縦陣でもって戦いたかった。
ところが、すでに述べたように、彼が出羽の第三戦隊を追っ払おうとして艦隊に陣形を指示したとき、戦艦アレクサンドル三世が信号を見誤ったことから大混乱が起こり、陣形が変な具合になった。
スワロフ以下の第一戦艦戦隊が先行し、その左翼に並航して (つまり二列になって) オスラービア以下の第二戦艦戦隊が走り、それにつづいて第三戦艦戦隊が息せき切るようにしてあとを追うという具合であった。二列である。
二列でもなかった。
これにくわえて第一巡洋艦戦隊がやや遅れて左右に戦艦の長蛇の列をながめつつその真ン中に入り込んでしまっているのである。
「敵はダンゴになってやって来た」
というのが、このあと実際にバルチック艦隊を見たときの日本側のおおかたの印象であった。たしかにダンゴになっていた。
旗艦スワロフの艦橋にいたロジェストウェンスキーの背後に、彼が早暁まですわっていた安楽イスがおかれている。
彼は自分の艦隊のこの混乱に多少いらだった。以前の彼ならば狂犬のように怒声をあげて狂いまわるところであったであろう。しかし戦闘を前にしてさすがにこの提督は沈黙を保った。
彼は出羽の第三戦隊が濛気のむこうに逃げ去った後、所期の単縦陣をつくるべく、
「第二戦艦戦隊は、第一戦艦戦隊の隊尾に続航すべし」
という信号旗をスワロフのマストに掲げさせた。
しかし十二ノットの速力で航進中の艦隊が、走りつつ短時間で陣形を変えるという芸当は、よほどの練度の高い海軍国でなければ不可能にちかかった。この高等芸が出来る艦長たちを持っているのは、地球上で英国海軍と日本海軍だけであるかも知れなかった。
“二列” を解消して単縦陣をつくるためには、まずロジェストウェンスキー直率の第一戦艦戦隊が増速しなければならない。第一戦艦戦隊は命令どおり増速した。
それにともなって左翼を進む第二、第三戦艦戦隊がそろって減速しなければならない。げんにロジェストウェンスキーは彼らに対して 「二ノット減らせ」 と命じた。しかしどういうわけか左翼を行く第二、第三戦艦戦隊は容易に減速しなかったのである。理由はわからない。
しいていえば、心理的なものかも知れなかった。すでに日本海の西玄関に入っている。目的地のウラジオストックまで全力をあげて遁走するのが艦隊の主目的である以上、減速は単に減速ではなく敵地に取り残されるような恐怖をもったのかも知れない。
「敵の二列縦陣のうち左翼縦陣が弱そうですな」
と、三笠の艦橋上で、秋山真之が、片岡の入電によって見えざる敵を想像した。たしかに左翼は第二、第三戦艦戦隊だから戦艦の質が、第一戦艦戦隊より弱い。
「左翼を衝きましょう」
というと、加藤は了承し、そのように味方をもってゆくべく針路を指示した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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