〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/07/30 (木) 

抜 錨 (十三)

余談だが、この艦隊鎮海湾を出て行くとき、水雷艇の一艦長が、
李舜臣りしゅんしん 提督の霊に祈った」
という記録を書いたものがあったように筆者は記憶しているが、それがどの資料にあったのか容易に見つからなかった。
当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広コひろのり という人が筆達者で、戦後、 「一海軍中佐」 という匿名で 「船影」 (大正三年・金尾文淵堂刊) という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で 「此一戦このいっせん(博文館刊) という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったと思ってさがしてみたが、なかった。
もう一冊、右の水野広コとよく似た文体の書物で 「砲弾をくぐ りて」 というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、この時期水雷艇の艇付少尉であった。この 「砲弾を潜りて」 を見ると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。
「世界第一の海将」
と著者がいう李舜臣は、豊臣秀吉の軍隊が朝鮮へ侵略したとき、海戦においてこれを鮮やかに破った朝鮮の名将である。李舜臣は当時の朝鮮の文武の官吏の中ではほとんど唯一というべき清廉な人物で、その統御の才と言い、戦術能力と言い、あるいはその忠誠心と勇気においても、実在したことそのものが奇蹟と思われるほどの理想的軍人であった。英国のネルソン以前において海の名将というのは世界史上この李舜臣をのぞいてなく、この人物の存在は、朝鮮においてはその後長く忘れられたが、かえって日本人の側に彼への尊敬心が継承され、明治期に海軍が創設されると、その偉業と戦術が研究された。
鎮海湾からふざん釜山沖にかけての水域はかつて李舜臣がその水軍を率いて日本の水軍を悩ましぬいた古戦場であり、偶然ながら東郷艦隊はそのあたりを借りている。
この時代の日本人は、ロシア帝国をもって東アジア併呑へいどん の野望を持つ勢力と見、東進してくるバルチック艦隊をその最大の象徴と見ていた。それを一隻残らず沈めることは東アジアの防衛のためだと信じ、東アジアのためである以上、かつてアジアが出した唯一の海の名将の霊に祈ったのは、当然の感情であるかもしれなかった。
ついでながら、水雷艇群は連合艦隊の出動とともに大艦の左右にくついて出港したが、外洋に出ると波浪が思ったより高く、わずか百トンあまりの小さな艇では翻弄されてどうにもならなかった。艇身がときに七十度に傾き、大波を艇首にかぶると人も艇も水中に没し煙突のみが波間に見えるという瞬間もあった。ときにはその煙突に大波がかぶさって海水が艇内に入り汽罐の火が消えそうになるおそれさえあった。やむなく東郷の命令で水雷艇はすべて風浪がしずまるまで対馬沿岸に待機させるということになった

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ