連合艦隊付の軍医総監鈴木重道は旗艦三笠に乗っている。 東郷もこの鈴木軍医総監を信頼していて、 「東郷さんは、鈴木さんに遺言
を託してあったそうだ」 といううわさまであった。 通報艦宮古が沈んだときのことである。開戦早々、大連湾付近で宮古が触雷沈没して、多数の戦死者が出たとき、大量の棺桶が必要になった。海軍は棺桶まで用意していなかったために、調達には苦労した。東郷がこのとき、 「私が戦死したら遺体を内地に帰すにはおよびません。その場で水葬してください。このことはあなたにお頼みしていきます」 と、鈴木に遺言した。鈴木は承知したが、
「しかし私も同時に戦死した場合には、実行が困難になることだけはご承知ください」 と言っておいた。 さて。 ── 「石炭捨て方」 が、三笠において終了したとき、総員は炭塵でよごれた艦内を掃除した。・・・・ 鈴木はさらに戦闘の前に全艦隊を消毒してしまいたいろいう理想をもっていた。これをあらかじめ各艦の軍医長に通達しておいた。戦闘に出て行く軍艦の艦内をすっかり消毒してしまうなど、世界の開戦史で例のないことで、環境衛生の歴史からみても珍例とするに足るものであった。 つまり敵弾の炸裂さくれつ
とともに艦内の構造物の細かい破片が兵員の体に入る。もし治療が遅れた場合、化膿してそのために落命する場合が多い。これを少しでも防ごうというのである。 戦艦敷島の艦長寺垣稲三が語り残している実例でいうと、まず艦内を石鹸でもって洗わせた。そのあと噴霧器で消毒薬を噴きつけてまわったのである。このおかげで、航走中の軍艦は清潔な
「消毒済」 の容器になった。 消毒はさらに入念をきわめた。全員を入浴させた。 入浴といっても艦内の既設の湯槽バス
だけでは足りなかった。 臨時のバスとして使われたのは、釣床ハンモック
がおさめられている鉄箱であった。兵の寝る釣床は、軍艦が戦いにのぞむとき、これを艦橋ブリッジ
や大砲の横その他必要な部分にびっしりとならべて防禦物といsて使われるのだが、そのため空から
鉄箱が不要のままに置かれている。 その鉄箱 ── といっても箱に穴があいているために正しくは箱の大きさに合わせた帆布キャンバス
の袋をなかに装着して ── それへポンプでもって海水を注ぎいれ、その中へ蒸気を吹き込む。それだけで簡単に湯がわくのである。 ついでながら日本海軍の特徴として、戦闘服は下着にいたるまで新品が用意されていることで、戦闘には新装で従事する
(ロシア側はもっとも汚れた服を戦闘の場合につける) 。 鈴木の指示によってあらかじめ全艦隊の新品の戦闘服は消毒されたまま格納されていた。入浴後、この
「消毒済」 の新品被服が出され、全員が着かえた。これなら、外傷をうけた場合の化膿の可能性をずいぶんおさえることが出来るに相違なかった。 すべてが終わったあと、各艦の副長は砲側に砂を撒ま
かせた。これはおそるべき作業であった。砲側が血みどろになった場合、兵員が足をすべらさぬようにするための配慮だった。 戦争が、人道と悪魔の作業を同時に行うものだという意味では、これが最後の戦争といえるかもしれなかった。 |