〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/07/22 (水) 

敵 艦 見 ゆ (七)

小柄こがら な和泉が、バルチック艦隊に、その南からずっとつき従い、北東に向かっていた。
艦長石田一郎大佐は、左舷の洋上に展開する敵艦隊の壮観を見つづけていた。
時が経つにつれて濛気が薄れ、洋上がほがらかになり、海の色が紺碧こんぺき にかわった。そのうねりの向こうをゆく敵艦隊の姿は、
── 小ざかしき猿を らしめよ。
というニコライ二世の命令がそのまま一大軍容に変じ、極東の島帝国を圧服してしまおうという威厳と鋭気に満ちていた。
刻々その状況を報告しつつある和泉の石田艦長は、バルチック艦隊のどの艦の煙突もみな黄色であることが不思議であった。
「煙突はすべて黄色」
と、彼は打電した。三笠の司令部はきっと喜ぶに違いないと思った。海戦で困難の一つである敵味方の識別ということが、敵の方から解決してくれているようなものであった。味方としてはともかく黄色い煙突の艦をめがけて射てばよいのである。
さらに石田艦長は、自分に渡されている密封命令のことを思った。この命令形式は海軍のしきたりで、秘密の漏洩ろうえい を防ぐために出港直前に艦長に渡される。出港後、指令を待って艦長が開くのである。
「もし敵艦隊が来たらざる場合は、対馬海峡の所定の場所へ行け」
という要旨の当時の命令が書かれていた。連合艦隊司令部をずっと支配しつづけていた重苦しい不安が、この命令にもよく表われていた。予期どおりにこの方面に敵がもし来なければ敵は太平洋まわりをとったものとみて、予想戦場をいそぎ変更し、津軽海峡の西出口で待ち伏せようというのである。しかしこの秘密命令は幸いにも無効になった。
敵がすでに和泉の左舷の沖合いの空を煤煙で曇らせつつわめくがごとく日本海に向かって押し進んでいるのである。
壱岐いき 島も近いという辺りで、珍事が起こった。
和泉の右舷艦首の方角にあたって、突如、汽船が現れたのである。陸軍の輸送船だった。博多湾を出て対馬方向に向かおうとしているようで、船名は共同丸といった。
石田艦長はあわてて信号をあげさせ、これを逃げさせた。つづいて陸軍の病院船土洋丸というのがやって来た。和泉は大急ぎで信号旗を上げ 「危険だから避けろ」 と命じた。
さらに石田を狼狽ろうばい させたのは、陸軍の補充部隊を満載した陸軍輸送船鹿児島丸が波を蹴立ててやって来た事である。この船は、石田の揚げた信号も理解できなかったばかりか、バルチック艦隊を日本艦隊と思ったらしく、甲板にあふれた陸軍の兵士が、
「バンザイ、バンザイ」
と叫んで、いよいよバルチック艦隊に接近しはじめた。石田はやむなく艦をこの輸送船に近づけ、メガホンでもって 「あれは敵だ、逃げろ」 と叫んだが、バンザイ声に打ち消されて聞こえず、いよいよ敵艦隊に近寄ろうとした。石田は非常措置として汽笛を鳴らしたり、鹿児島丸の前を突っ切ったりしてようやくあれは敵だということを納得させた。
鹿児島丸では、おそらく船長や輸送指揮官以下が仰天したであろう。あわただしく逃げて行った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ