東郷のその一言を聞くなり、島村速雄は一礼した。 彼も多くを言わなかった。東郷の応答に対して彼が言ったのは、 「そいういお考えならば、なにも申上げることはありません」 という言葉だけで、藤井をうながして長官室を出、三笠から去ってしまったのである。 この間
の消息について、のちに小笠原長生が、東郷その人や、島村速雄などに直接取材して機微にいたるまでをたしかめた。 小笠原長生がこの時期、東京の大本営幕僚であったことはすでに触れた。彼は東郷のもとから来た例の電報も電報も東京の現場において知っていたのである。このため不審が残った。それほど東郷の決意が固いのならなぜ、「鎮海湾から移動したい」
というような電報を打ったのか。 そのことを後年、小笠原は東郷に聞いた。 東郷の回答は簡単だった。 「おれはそんな電報を送らぬ」 と、あれだけ大本営などを騒がした電報の一件を当の東郷はまったく知らなかったのである。結局は、前線の幕僚と東京の幕僚との間の幕僚同士の意見交換電報にすぎなかったということがわかったが、東郷自身はあくまでも敵が対馬海峡から来ると信じていた。 この東郷の観測は、後年、彼が安部真造という質問者に対してあげたように、三つの理由によるものであった。 第一に、北の宗谷海峡あたりは霧が深く、大艦隊の航海が容易でない。第二に、バルチック艦隊は長期の航海をつづけているために艦底にカキなどがくっついて船足がにぶっており、うっかり太平洋をまわったりすれば足の速い日本艦隊に追っつかれるだけのことであり、このことは敵も知っているはずだ、ということ。第三に東郷があげたのは燃料のことであった。石炭をいかに各艦が満載しようとも限度があり、その石炭を大量につかって太平洋をまわる場合、もし日本艦隊とぶつかれば幾日も戦わねばならず、戦闘中に燃料がきれて結局は自滅するおそれが十分ある、ということであった。 これについては島村速雄が、この前後に他の士官にいった場合も有名である。 「敵が、いくらかでも航海というものを知っておれば必ず対馬海峡を通る」 といった言葉で、その理由は東郷があげた三つの理由とさほどかわらない さらに、東郷が、 「敵がここを」 と、海図の上の対馬海峡を示し、 「通というから通るさ」 と言ったことも、当時東郷に近い士官たちの間で評判になった。真之たち幕僚が東郷の前で甲論乙駁こうろんおつばく
していた席で、たれかが東郷の意見を問うたときに言った言葉である。 右のようないきさつの末、連合艦隊はなおも鎮海湾に待ちつづけることになった。 ただ東郷もこの待機方針を固定化せず、 「このつぎの情報がくるまで待とう」 という意見を、加藤参謀長や秋山真之らに示した。以上のことは五月二十五日までの経緯である。
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