ステッセルが日本軍についてほめたのは、前線で坑道掘進をやってのけた工兵の勇敢さと、砲兵の射撃能力と、そして二十八サンチ砲という物理的威力についてであった。 ──
この三大要素のためにわれわれは開城さざるを得なかった。 というのは、単に儀礼的賛辞だけでなく、ごく冷静な軍事的書見であるといえた。なぜならばもっとも勇敢で死傷率の高かった日本歩兵については一言も賛辞を述べなかったのである。 旅順における両軍の損害を比較すると、ロシア軍の戦闘員は四万五千、このうち死傷は一万八千余。さらにこのうち死んだ者はわずか二、三千にすぎない。この大要塞に守られて巨大な火力を持っていたとはいえ、これだけの激戦で死者二、三千人というのは攻撃側の日本軍のそてに比してきわめて少ない。 日本軍の場合は、兵力十万。 そのうち死傷六万二百十二人で、六割の損害というのは世界戦史の上でもまれである。さらにこのうち死者は一万五千四百余人で、一割五分という凄惨さである。さらに第一線で戦闘した将校の死傷率はもっと多く、全期間を通じて無事開城まで戦線に立ちえたのはわずか十余人にすぎなかった。とくに下級将校は白刃をふるって隊の真っ先に進まねばならぬため、真っ先に機関銃の餌食になってしまったのである。
ステッセルは、それをよく知っている。日本軍主力の歩兵はあれほど勇敢に、おそらくこれまた世界戦史に類を見ないほどの勇敢さで戦いながら、その死の多くは単に要塞の砲火の機械的犠牲になったのみで、とくに前半は要塞防御をおびやかすほどの効果があったとは思えない。ステッセルは日本歩兵に対してはたしかに勝ったという実感のもとに、工兵と砲兵と、そして二十八サンチ榴弾砲の機械力をほめたのであろう。 そのあと、ステッセルは二人の歩兵についての哀悼の意を述べた。 乃木の息子である勝典と保典の戦死についてである。 「まことに敬悼に堪えません」 と、川上通訳が通訳すると、乃木は微笑をつづけたまま、 「私は自分の息子が武人としてその死処を得たことをよろこんでいます」 と、答えた。 会見は、二時間つづいた。 ステッセルはこのあと、その幕僚に対し、 「自分がこの半生のうちで会った人の中で、乃木将軍ほど感激を与えられた人はない」 と語ったというが、たしかにそうであったらしくその尊敬は生涯変わらなかったという。 余談ながらステッセルはその後、本国における軍法会議で、 ──
兵員、砲弾、資材、食糧を十分に残しながら敵に降伏した。 ということで死刑を宣告された。 これを聞いた乃木は、そのころパリの駐在武官をしていたこの第三軍当時の参謀津野田是重少佐に対し、命乞いの運動が出来ぬものかという旨の意思を伝えた。津野田は、ステッセルの開城がやぬを得ざるものであるということを綿密に論証してパリ、ロンドン、ベルリンの諸新聞に投稿したためそのことが多少効があったらしく、ステッセルはその私刑からはまぬかれることができた。
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