〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/14 (木) 

水 師 営 (十)

意見は、出つくした。これを分類すれば、将星たちの意見はすでに述べたように三種類に分かれたのだが、これに対し参謀長レイス大佐は結論を出さねばならない。
レイス大佐は名前をヴィクトル・アレクサンドロウィッチと言い、亜麻色あまいろ の髪と端正な容貌とすぐれた理解力を持った秀才だったが、ただ作戦を創り出すための独創能力と、自分の独創性を押し進めようとするための強い意志力に欠けていた。参謀長というよりむしろ副官であったほうが、彼のためによりふさわしい職だったかも知れない。
レイス参謀長はこの会議より前、
(ステッセルはもはや絶望的になっているのではないか)
と、敏感に察していた。レイスは主将のそういう気分に影響されやすかった。というよりレイスの理解力は多分に受け身の受容性に富み、彼自身の考えを思考の基礎にするよりも、上司の考えや気分をよく理解してそれを実務化するというような傾向のある人物だった。
従ってレイスが今から述べようとしている作戦案は彼のものではない。あくまでも、
(これならばが喜ぶだろう)
と、レイスの才子的な感覚で判断して立案したもので、ロシア帝国のためでもなければ、日本軍を撃滅するためのものでもない。
「降伏」
とは、むろん言わない。ある意味では 「降伏」 ということを打ち出すにはよほどの勇気を要する。そういう勇気がステッセルにないことは、レイスも知っている。ステッセルが願っている案は、
── よく戦った。
という印象を本国に思わせつつ、しかもやがては降伏に持ち込む。でありながら 「降伏やむなし」 といううわべだけの戦闘経過をつくりあげようというものであり、レイスはステッセルのよき幕僚としてその意を迎える案を考え出していた。というような案をつくるレイスの意識はあくまでも体内的であり、目の前に日本軍はなく、ステッセルだけがあった。ステッセルもまた本国政府の方角にのみ顔を向けている。帝政末期のロシア陸軍の悪弊が、こういう場合でさえ露出していた。
レイスは、立ち上がった。彼が先ず言ったのは、自軍への賛美である。
「旅順要塞は太平洋艦隊 (旅順艦隊) のもっとも重要な根拠地であったが、ところがその艦隊は絶滅して今は存在せず、要塞のみひとり存在している現状である。戦略上の必要はもはやなくなったというべきであろう。さらにはまたこの要塞は日本軍十五万 (実際は十万) を旅順にひきつけておくという点で重要な役割を果たして来た。その防戦期間はいまや七ヶ月である。その方面の任務もまた完全に果たしたというべきであろう」
レイス大佐は以上の内容を美しい修辞でかざりつつ述べた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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