〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/12 (火) 

水 師 営 (八)

この十四日の視察では、コンドラチェンコは無事であった。
翌十五日、戦闘指揮所に入ったコンドラチェンコは、問題の東鶏冠山北堡塁から電話連絡を受けた。
「日本軍が妙なものを投入しました。有毒ガスが発生し、苦しくてなりません」
という驚くべき急報であった。
毒ガスというのは第一次大戦でドイツ軍がはじめて使用するにいたるもので、この当時、そういう存在も概念もない。
が、コンドラチェンコは、わずかな戦場現象も見落とすまいと心掛けていた。この程度のことなら、ふつう将軍みずからが前線へ行かず、たれか幕僚をやるか、あるいは幕僚も行かずに若い将校でも走らせることであろう。が、コンドラチェンコほど、戦場の面倒見のいい男はいない。
「すぐ行く」
と、言い、出発の支度をした。彼は日本軍の新兵器・・・ を検分する必要上、工兵ラシェツキー中佐を帯同した。幕僚のナウメンコ中佐も随行した。
すでに、日が暮れている。
東鶏冠山北堡塁に着いたときは、午後八時をすぎていた。
「いったいどうしたのだ」
と、出迎えた堡塁長のフロロフ中尉に聞いた。中尉が説明した。現場は、この堡塁の外、つまり日本軍に近い所に、日本軍の坑道掘進をさまたげる目的での坑道路がつくられている。その坑路に入っているロシア兵が、そのガスに悲鳴をあげているという。
日本軍が、有毒ガス発生材を投入したのだというのである。
その有毒ガスの実体は何かということについては、今日でもよく分からない。
戦闘の実態は、日本軍が坑道を掘り進んで来る、ロシア兵がこれを妨害するための坑道を掘る、ときに坑道内で悽惨な格闘が行われたりしたが、この間、日本兵の一兵卒が、
── われわれの故郷では猟師が狸をいぶし出すのに、こういう方法を使っている。
といって、松ヤニ、硫黄いおう などを油ぎれにくるんでガス発生材を作り、ロシア軍の坑道に投げ込んだりすることがあったようである。ロシア兵を驚かせ、コンドラチェンコに駈けつけさせたのは、どうやらその類のものかも知れない。
ともかくコンドラチェンコは現場を見ようとした。このためまず堡塁の咽喉部の窖室こうしつ に入った。
このとき日本の二十八サンチ榴弾砲陣地で発射音が轟き、巨弾が空を飛んでこの窖室の天井を突き抜け、内部で大爆発したのである。
堡塁長フロロフ中尉は吹っ飛ばされたが、重傷を負っただけで済んだ。硝煙が消え、星空が見えたことを同中尉はおぼえている。
燈火がないためにあたりの光景はすぐには分からなかったが、すでにコンドラチェンコの肉体は四散し、随行した将校はことごとく死に、窖室内にいた下士官兵も、ほとんどが即死した。
この夜、ステッセルはこの報を聞き、フォーク少将をして死者の職務のあとを がせている

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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