真之は、兵理について、 「兵理というものはみずから会得
するべきもので、筆舌をもって先人や先輩から教わるものではない」 ということを、彼はのちに海軍大学校で講義したことがある。 彼は、会得する方法を懇切に教えた。あらゆる戦史を読んで研究せよ、読めるかぎりの兵書を読むべきである、その上でみずから原理を抽象せよ、兵理というものは個々に研究して個々が会得するしか仕方がないものだ、と言った。要するに教科書は個々が作る以外にない、ということであった。 真之の対バルチック艦隊の戦法も彼の独創で、どの国の戦術書にもない。 彼が今練りつつある迎撃戦法はのちに、 「七段構え」 という名称がついた。真之は敵を一艦残らず沈めるとすれば、原則としてこれ以外にないと考えている。 つまり、済州島さいしゅうとう
あたりからウラジオストックの沖までの海面を、七段に区分するのである。その区分ごとに戦法が変わる。 先ず第一段は、バルチック艦隊が日本近海に現れるや、すぐには主力決戦はせず、いちはやく駆逐隊や艇隊といった足の速い小艦艇を繰り出し、その全力を以って敵主力を襲撃し、混乱せしめる。この点、真之が熟読した武田信玄の戦法に酷似こくじ
していた。 第二段はその翌日、わが艦隊の全力をあげて敵艦隊に正攻撃を仕掛ける。戦いのヤマ場はこの時であろう。 第三段と第五段は、主力決戦が終わった日没後、ふたたび駆逐、水雷という小艦艇を繰り出し、徹底的な魚雷戦を行う。これは正攻撃というより、奇襲というべきである。 次いでその翌日、第四段と第六段の幕をあげる。わが艦隊の全力ではなくその大部分をもて敵艦隊の残存勢力を鬱陵島うつりょうとう
付近からウラジウオストック港の港外まで追い詰め、しかるのちに第七段としてあらかじめウラジオストック港口に敷設しておく機雷沈設地域に追い込み、ことごとく爆沈させるという雄大なもので、第一段から第七段まで相互に関連しつつ、しかも各段が十分に重なりあっていて、間隙がない。その精密さと周到さという点においては、古今東西のどの海戦史をみてもこのようではない。真之以前の歴史上の海戦というのは、多分にゆきあたりばったりの粗大なものが多く、真之はむしろこの緻密ちみつ
さを、陸戦の戦史を読むことで会得したといっていい。 この七段構えについては、真之はそればかりを考えていた。母親のお貞を背負って貰い湯に行く時もこのことを考えていたし、天井をにらんでいるときは、むろんこのことばかりであった。
(八月十日の黄海海戦の苦戦を二度と繰り返しては、日本は滅亡する) と、真之の脳裡に常にそれがある。あのとき、偶然、わが主砲弾が敵の旗艦に命中して敵の指揮や陣形を大混乱におとし入れたからこそ、辛うじて勝利へ漕ぎつけることが出来た。あの偶然がなければ、 「どう考えてもわれに勝ち目があるはずがなかった」 と、真之が後年まで話題が黄海海戦に及ぶとそう言っていたとおり、まったく偶然が転機になった。真之は来るべきバルチック艦隊との決戦では、偶然のを恃たの
む要素を皆無にして戦おうとしており、それがこの 「七段構えの戦法」 であった。 |