〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/10 (金) 

二 〇 三 高 地 (二十八)

児玉は、大体の様子を田中から聞いた。
「そんなばかなことがあるか」
と、怒鳴ったのは、乃木軍が最初 「占領した」 とと報告したその占領という言葉の概念についてであった。なるほど乃木軍は山麓から中腹にかけて屍山をきずき血河を流したあげく、二〇三高地の頂上にある二つの堡塁を占拠した。一つは生存者は百人内外であり、一つは四十人前後である。乃木軍はそれに対する兵員、弾薬、食糧の補給をせず、はるか後方の軍司令部で現地から何段階か経た報告を聞いただけで総司令部に報告したのであろう。つねに児玉が不満に思っているように、乃木軍司令部から参謀みずからが二〇三高地m行っていない証拠であった。
本来、この報告も、
「占領セリ」
などとせず、
「香月隊ノ残兵百、村上隊ノ残兵四十ガ、ソレゾレ山頂ノ二堡塁ヲ占拠シアリ」
という正確さで報告してくれば、総司令部の方も、
── 乃木軍司令部としては、それでどういう処置を講じつつあるのか、さらに敵情はどうか。
という質問も出来たに違いない。
「占領」
というのは戦争の完結もしくは戦闘行為の終了を意味するものであり、だからこそ児玉は乾杯したのだが、しかし、この場合、およそそういう用語が使えないはずであった。
(予定のごとく、自分が行くしかない)
と、児玉が最初のとった行動は、大山巌へ電報を打つことであった。
「自分の指揮下に入らしめるために、歩兵一個連隊をすぐさま南下させてほしい」
という旨のことを乞うた。その大山からの電報を待たず、児玉は例の彼の専用の汽車に乗った。汽車はいったん北上し、南関嶺から旅順へ向かうレールに乗り、南下した。
その汽車の中で、
── 承知した。
という旨の大山からの返電を受取った。
児玉は、一刻も早く戦場に着きたかった。その児玉の心理からすれば汽車のスピードは遅すぎた。児玉はそれを叱った。が、機関士は蒸気いっぱいの高速で走っているつもりであった。ただし、駅には各駅とも止まらねばならなかった。児玉への連絡が来ているかも知れなかったからである。
「長嶺子」
という駅がある。汽車がその駅に止まった時、陽焦ひや けした一人の佐官が乗り込んで来た。乃木軍司令部から、出迎えとして派遣された参謀副長大庭二郎中佐である。
大庭にとって不幸だったのは、児玉の癇癪かんしゃく が彼に集中したことであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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