この時期の広瀬武夫についてふれておきたい。 彼の指揮する船は、報福丸
(二四〇〇トン) と決まった。機関長は粟田富太郎で、下士官兵は十四人である。船には、すでに自沈のための石材やコンクリートなどを積み込んである。爆装も、他の技術者の手で作業が終わっていた。 広瀬と真之にとって兄貴分に当る八代六郎大佐は、一等巡洋艦浅間の艦長でいる。 八代の浅間については、この艦が仁川沖開戦に登場し、ワリャーグろコレーツを撃破したことをすでに触れた。 八代は、広瀬が好きであった。彼は広瀬が閉塞隊の五人の指揮官の一人になったことを知ると、すぐ通信艇を走らせて広瀬の乗っている戦艦朝日に手紙を送りつけた。 広瀬が開いてみると、 「此度
壮挙に死すれば、求仁得仁ものなり。邦家の前途は隆盛疑ひなし、憂慮を要せず、安心して死すべし」 と、書かれていた。 「海軍の侠雄きょうゆう
」 といわれた八代六郎は手紙の文章がうまく、その死後 「八代海軍大将書翰しょかん
集」 (昭和十六年刊) という書物が出たほどであった。 広瀬への文章は簡単だが、その背景の意味はこうであろう。維新後、藩を解消し、氏族の特権を廃止し、徴兵令を布し
くことによって士族・平民を問わず兵にし、それやこれやで日本史上最初の国民国家が形だけ出来たが、しかし国民意識としての実質はなおあいまいであった。それが日清戦争によって高まったが、ただし日清戦争においてはまだ平民出身の兵士が自発的に国家の難に赴くというところが薄かった。十年後に日露戦争がこのようにして始まり、その初頭において閉塞隊志願のことがあった。 八代は志願者はせいぜい百人ぐらいかと思っていたところ、二千余人が志願した。維新後の新国家においてはじめて国民的気概というものがこの挙によって現れ出た、というのが八代六郎の見方らしい。
「邦家の前途は隆盛疑ひなし」 と八代が書いたのは、そのことである。 八代と広瀬のつながりは、どちらも柔道が好きだったということから始まっている。その後、ロシア語勉強で交渉が深くなり、さらに相前後して両人がロシア駐在武官として露都ペテルブルグに赴任した頃から兄弟以上のもになった。 気質が似ているところがあったが、両人とも詩文に関心が強かった点も相引いたのかも知れない。 ある日、ペテルブルグの日本公使館へ行く途中、八代は急に、 「万里ノ長城、胡こ
ヲ禦ふせ ガズ」 という詩句を唱し、広瀬これを俳句にしてみろ、それも今から三十歩あるくあいだに一句つくれ、と要求した。 広瀬は五歩か六歩あるくと、もう振り返った。 「盗人ぬすびと
を吾子わがこ と知らで垣造かきつく
り」 八代は、感心した。 広瀬は滞露中、プーシュキンの詩の幾篇かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの 「隊長ブーリバ」 やアレクセイ・コンスタンチノウィッチ・トルストイの全集を読むことに熱中したことがある。日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことが出来たごく初期の人びとの一人であろう。 |