海軍をつくりあげた西郷従道という人は、そういう人だったらしい。 こまかい行政技術については一見愚なるがごとしと言われたが、利口でなくても聡明な人物であったことは、伊藤博文がたれよりも認めていた。 伊藤は、世界の政局についても面白い見方を得たりすると、たれよりも先に西郷に話したがった。西郷は聞き上手だったし、伊藤博文を同輩ながらも早くから認め素朴に尊敬し、伊藤が政治的苦境に立つと、しばしばその飄逸
な人柄と機智で救ってやった。 人間の関係を貸し借りで言うと伊藤は生涯、西郷に一度も貸すことなく、西郷から借りてばかりいるという間柄だった。このため人には君づけでしか呼ばない伊藤が、西郷にだけはさん・・
づけで呼んで、つねに兄事けいじ
する姿勢をとっていた。 西郷は、物の本質を見抜くのが上手だった。そのかなめ・・・
だけをにぎって、あとは春の野のそよ風に吹かれているような顔をしている。 西郷は、晩年、伊藤について評して、 「伊藤サンは物識し
りでえらいひとである。しかし、非常のことがあると、頭がくるいがちだった」 と言った。伊藤をよく評している。 西郷従道のふしぎさは、海軍について何も知らないこの人物が、明治十八年の伊藤内閣ではじめて海軍大臣をやったのを皮切りに明治二十六年に就任し、さらに松方、伊藤、大隈の三内閣とつづいて海軍大臣をやった。ひとつには海軍には陸軍とつりあいの取れるだけの政治家がいなかったためだが、彼がやることによって、海軍がうまくいったことは確かだった。 戦艦三笠を英国のヴィッカース社に注文したのは明治三十一年であったが、しかしこの時期すでに海軍予算は尽きてしまっており、前渡金を捻出ねんしゅつ
することが出来ず、権兵衛は苦慮した。 このころ権兵衛は四十七歳で、海軍大臣をつとめている。 当時、西郷は内務大臣をしていた。ついでながら西郷というひとは、文部郷、陸軍卿、農商務郷から、海軍大臣、内務大臣と、大蔵大臣をのぞいてはほぼ大臣のポストは全部経験したが、総理大臣だけはやらなかった。 権兵衛は、万策尽きた。西郷になにか智恵はないものかと訪ねると、西郷は事情を聞き終わってから、 「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追及されて許してくれなんだら、あなたと私と二人二重橋の前まで出かけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦が出来ればそれで結構です」 三笠は、この西郷の決断でできた。 西郷と権兵衛とは、海軍建設においてはそういう関係だった。 |