ロシアと戦うについての陸軍の準備は、いずれ触れるときがある。 問題は、海軍であった。 日本国の地理的特徴は、まわりは海にかこまれていることであろう。敵の海軍力は、日本の任意の海岸から攻め入ることが出来るし、場合によっては、かつてペリーの艦隊が江戸をおびやしたように、東京湾深く入ることも出来る。 「──
もし日本に」 と、当時、ロシアの海軍内部で言われた。日本の海軍が消滅すれば露国
は二十隻程度の軍艦をもってこの列島を包囲し、日本に手も足も出させぬようにして城下の盟ちかい
を誓わせることが出来る ── というものであった。 日本は、海軍を強化しなければならない。 これをやってのけた企画者兼推進者は、ただ一人の人物であった。 山本やまもと
権兵衛ごんのひょうえ である。 「権兵衛ごんべえ
」 と、世間では言う。この稿でも権兵衛ろいうことで彼を語りたいが、権兵衛について触れる前に、おどろくべき材料を提示しておかねばならない。 日本の国家予算である。 狂気ともいうべき財政感覚であった。 日清戦争は明治二十八年に終わったが、その戦時下の年の総歳出は、九千百六十余万円であった。 翌二十九年は、平和のなかにある。当然民力を休めねばならないのに、この二十九年度の総歳出は、二億円あまりである。倍以上であった。このうち軍事費が占める割合は、戦時下の明治二十八年が二三パーセントであるに比し、翌年は四八パーセントへ飛躍した。 明治の悲惨さは、ここにある。 ついでながら、われわれが明治という世の中をふりかえるとき、宿命的な暗さがつきまとう。貧困、つまり国民所得のおどろくべき低さがそれに原因している。 これだけの重苦しい予算を、さいて産業もない国家が組みあげる以上、国民生活は苦しくならざるを得ない。 この戦争準備の大予算
(日露戦争までつづくのだが) そのものが奇蹟であるが、それに耐えた国民の方がむしろ奇蹟であった。 にとつは、日本人は貧困に馴れていた。この当時、子供は都会地の一部を除いては靴を履く習慣もない。手製のわら草履かはだしであり、雪国の冬のはきものはわら靴で、これも手製である。子供だけでなく、田舎ではおとなもほぼそうであった。 食物は、米と麦とあわ・・
、ひえ・・ で、副食物の貧しさは、話にならない。 その上、封建的な律義りちぎ
さがまだつづいており、人びとは自分の欲望の主張を出来るだけ控え目にすることを美徳としており、個我の尊重というような思想は、わずかに東京の一部のサロンで論じられている程度である。 他にいろいろ要素があるが、一国を戦争機械のようにしてしまうという点で、これほど都合のいい歴史時代はなった。
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