〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-X』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2015/01/13 (火) 

列 強 (三十七)

このあまりに露骨なロシア皇帝の極東侵略のやりかたに、ロシアといわば侵略仲間のドイツのウィルヘルム帝がむしろ心配になってきて、
「わが盟友 (ニコライ二世) は、どうやら興に乗りすぎているらしい」
と、その幕僚に語ったという。
この時期、ドイツ外務省は東京から暗号の電報で、
「日本は猛烈ないきおいで対露開戦準備をしている。ロシアがいまの態度 (極東侵略) を持続するなら、日本は開戦のほか道はないと決心している」
という内容の情報を得た。
ドイツはロシアと同盟関係にあり、皇帝カイゼル ウィルヘルム二世は、皇帝ツアリー ニコライ二世に対し、この情報を教える義務を感じた。
一九〇三 (明治三十六) 年の八月もことである。この時期、ニコライ二世は保養のため海外旅行を思い立ち、ダルムシュタットに滞在していた。
皇帝カイゼル の使者が、皇帝ツアリー のもとに来た。電報の内容を明かすと、この覇気はき に富んだ、教養に不足のない、しかし精神の根本がいくぶんもろく出来ているロシア皇帝は、少しも驚かずに言った。
「戦争はありえない」
ちょうどその落ち着きぶりは、航海に老熟した船長が、明日の天気を確信をもって断言するような匂いがあった。
使者である皇帝カイゼル の侍従武官の方が驚き、
「陛下、戦争はあり得ぬとおおせられますので?」
と、聞き返した。
皇帝ツアリー はうなぅき、
「なぜならば、私が戦争を欲しないから」
と、平然と答えた。
このニコライ二世の答えは、すぐパリやベルリンの外交界で話題に上るほどの話題性を持った。
── なるほど、私が欲しないからか。
と、この当時、すでに大臣を退職していたウィッテはパリに滞在していたが、ダルムシュタットから訪ねて来たニコライ二世の廷臣フレデリックス男爵から、のちに有名になったこの挿話を、なまで聞いた。
ウ 「陛下はお元気ですか」
フ 「きわめて快適な毎日を送っておられます」
そういう会話から始まり、話題は当然ながら極東問題になりこの挿話にふれた。
「私が戦争を欲しないから」
という皇帝の言葉は、巨大漢とこびと・・・ のあいだの笑話のようなものでべつに解説を要しないが、ウィッテは皇帝の対日外交感について、皇帝自身の言葉でこう説明している。
「なるほど日本がロシアのいうことをきかない。中国もロシアの言いなりにならない。それはロシアが彼ら東洋の国々に対してあまりにも遠慮がちな態度を示して来たからである。彼らに我々の命令をきかせる手段は、一つしかない。威圧である」
威圧すれば足りる。彼らはロシアと戦争する能力などからっきしないから、戦争はあくまでもロシアが決めるものっであり、ロシアが欲しない限り起こりっこないのだ、ということであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ