〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/22 (土) 

日 清 戦 争 (十二)

話を、変えたい。
どのようにこの当時に日本やそのまわりの状態と状況を説明すべきか、筆者はあれこれと迷っている。
いっそ、小村寿太郎じゅたろう というこの当時中国にの派遣されていた外交官の言動から察してゆく方が、ひょっとすると早いかも知れない。
小村寿太郎というのは日向ひゅうが (宮崎県) 飫肥おび 藩の出身で、この物語の主人公の一人である秋山好古よしふる よりも四歳上である。
明治三年、藩の貢進生に選ばれて東京の大学何校に入り、法律を学んだ。
小村が十七、八の頃、東京の町はちょうど後年のスターのプロマイドのようにして太政大臣や参議の写真が売られていた。政治家がスターの時代であった。小村はそのうちの参議大隈重信おおくましげのぶのそれを買って来て、寄宿舎の机の上に飾った。その写真の裏に、
「謹呈小村寿太郎君、辱友じょくゆう 大隈重信」
と自分で書いた。サイン入りということであろう、もっともそのサインは小村の偽筆であったが。
学友が驚き、君は大隈重信と知りあいか、よ問うと、小村は傲然ごうぜん と胸を張り、
「むこうは知らんだろう。わが輩は知っている」
と言った。この時代、この小さな新興国家の書生たちの学問の目標が何であったかが分かる。単純明快な出世主義であり、子規もこの年齢のころにはそうであったように大臣参議になって一国の運営をすることであった。
在学中に征韓論が起こり、内閣はふたつに割れ、征韓派であった参議西郷隆盛、同板垣退助、同江藤新平らは辞表をたたきつけて郷国に帰った。このため内乱の気配がもりあがった。書生たちも両派に分かれて論議した。
小村は言った。
「この様子では必ず内乱が起こる。政府は討伐軍を繰り出し、両軍相戦い、多大の軍費が浪費され、大勢の人間が死ぬ。同士討ちで同胞が大金をかけて殺し合うくらいなら、海を越えて朝鮮を討った方がよい」
討たれる朝鮮こそいいつら の皮だが、この時代のこの国の人間の政治感覚はほぼこういうものであった。
毎時八年、文部省の留学生として渡米し、ハーヴァード大学で三ヵ年、法律を学び、あと二ヵ年はニューヨークの弁護士事務所で働き、法律の実際を学んだ。
小村寿太郎という、この明治時代を代表する外交家は生涯 「攘夷主義者」 をもって自認したが、米国留学中も日本人としての自負心が強烈すぎるところがあった。
たとえば、新島襄 にいじまじょう (同志社の創立者) を米国で世話をした知日家で、ハーディという人物とボストンで会ったことがある。ハーディが、 「新島は京都で学校を開いたという、私は彼のキリスト教主義による日本人教育が成功することを祈っている」 と言うと、小村は言下に、
「祈っても無駄ですな。日本では成功しやしませんよ」
と断言した。
そういうあたりが、小村寿太郎の攘夷家的気質のあらわれといっていい。
── 新島襄のキリスト教主義による教育事業は成功しない。
と言う。ハーディは驚いてわけを聞くと、この日本人の中でもとびきり小柄な男は、
日本の文化と歴史が邪魔をするでしょう。あなた方アメリカ人は、日本をフィリピンかハワイにいうに思っているらしい。そういう土地に対してならキリスト教の伝道は大いに滲透しんとう するが、日本はキリスト教文明とは別系列にしてしかも堂々たる文明とその伝統を持って来ている。日本人は西洋の技術は学ぶが、しかしそれに付帯するキリスト教文化というものについては容易に許容すまいし、したがって新島襄の事業はあなたが期待するほどには成功しないでしょう」
と言った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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