大学の制度は、しばしば変わった。 明治二年、旧幕府における最高の学校であった昌平坂学問所を改めて、 「大学校」 と称した。その機能を二つに区分し、大学南校と大学東校と言い、南校では人文科学、東校では医学を教えた。 それが明治四年、同十二年の学制改革でおいおい充実し、明治十九年の帝国大学令ではじめて帝国大学の設置が規定された。 子規や真之らは、帝国大学以前の制度の時に入学している。彼らが入学した大学予備門というのは大学に付属した機関で、のちの旧制高校もしくは大学予科に相当する。 「あし
ゃ、どうも英語がでけぬ」 と、子規は入学早々、音ね
を上げはじめた。 子規は、大学試験の英語考査の時、共立学校のころの友人からこっそり教えてもらった。 「Judicature」 という単語が出た。Judge
から出た言葉で司法権とか司法官という意味があるが、子規にはわからず、隣の席のその友人に小声で救援を乞うと、 「ホーカン」 と、その男はささやいた。法官である。が、子規は、なるほど幇間ほうかん
か、と思い、そのように書いた。司法官とたいこもち・・・・・
、ずいぶん意味が違うであろう。 その程度の実力で入学してしまったために子規は当惑した。 当然であった。この当時の予備門の教科書は外国直輸入のもので、例えば幾何の教科書もすべて英語で書かれており、試験の問題も英語で出た。 子規はやがて幾何でも落第するのだが、幾何そのものが分からないというより前に、幾何の教科書の英語からして分からなかった。 「あし・・
のような者は予備門で一人じゃ」 と、子規は毎度首を振って嘆いた。 他の学生は、たいていが英語が出来た。子規がもっとも驚いたのは学期末の試験の時に隣の学生が英語で答案を書いていることであった。 (こんな男がいてはかなわない) と、子規は思った。その学科は地理かなにかで、べつに英語で書く必要のないものであったが、その男のスピードは子規が書く日本語より早かった。 やがてそれが、東京府立一中から来た山田武太郎という男であることがわかった。後の山田美妙びみょう
(斎) である。 山田美妙はこのあと創作に専念するために中途退学し、この翌年尾崎紅葉とともに硯友社けんゆうしゃ
をおこし、いかにも早熟の才子らしい小説をつぎつぎ発表し、やがて言文一致運動を起こし、世間の注目を浴びた。 このような才子から見れば、この当時の子規はいかにも田舎の青年で、諸事鈍重であった。 |