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藤原泰衡の飛脚が、鎌倉表へ着いたのは、五月二十二日、申
の刻こく だった。 状には、
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── 令を奉じて、去月晦日みそか
、義経を誅ちゅう し了をは
んぬ。首級は、追使ついし して、御検分に入れ進まゐ
らせむ |
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と、ある。 頼朝は一言、 「やったか」 と、つぶやいたのみである。それは、泰衡の器量もその人物も、およそ測り得たとするうなずきと交じっていた。義経に対する感情は眉にも出さない。 消息はただちに、鎌倉表から、院へ早継ぎされた。 後白河は、さっと、眉色びしょく
をうごかされたが、お声としては、 「さて、これで国中も静謐せいひつ
になろうか」 とのみ、お静かな叡感えいかん
であったという。 また、九条兼実が、その日の日記に、 |
“
天下ノ悦ヨロコ ビ、何事かコレニ如シ
カンヤ。実マコト ニ神仏ノ助ケ、抑々又そもそもまた
、頼朝卿ノ御運ゴウン ナリ ” |
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と書いたのは、鎌倉ぎいきの彼として、当然だった。けれど、後白河の仰せが、仰せ通りなものだったとは、いわれない。おそらく、御真意は、べつにあったろう。 泰衡の使者、新田冠者高衡が、やがて関東へ下って来たのは、もう真夏だった。 六月三十日、死後四十幾日かを経て、着いたのである。 さすが、頼朝は、見るを得なかった。鎌倉へも入れなかった。令して、腰越ノ浦に、使者を控えさせ、和田小太郎義盛、梶原平三景時に、実検させた。 首は、黒漆くろうるし
の櫃ひつ に納められ、美酒にひたしてあったという。 が、その面貌めんぼう
が、その人と、すぐ判別がついたかどうか。 酷暑の長い道中だった。よく分からぬのが、むしろ当然と、うばずかれたであろう。 しかもまた、じっさいは、義経自身、持仏堂に火を放ち、妻子の屍かばね
に折り重なって、自刃したものといわれている。首級がつつがないのも、不審といえば不審である。 けれど、遠国のことだった。使者は、なんとでも、その口上を、言いつくろうことも出来る、また、実検の士としても、和田義盛など、義経の心根を思うて、見るに忍びなかったことだろう。梶原は、恐こわ
い気がした。見たらおそらく、その夜の夢にも魘うな
されようかと、これも正視は出来なかったに違いない。 実検の場所もまた、奇く
しき宿命の地といえよう。かつて義経が、兄の怒りを解くため、京より懸けて来て、血涙の書を兄へ捧げ、しかも鎌倉へ入るをさえ免ゆる
されず、むなしく追い返された腰越ノ浜だった。── 梶原は、当時を思い出して、 「はて、妙な巡めぐ
り合あ わせよの」 夏なのに、ぞっと、背を寒くした。 今日の他人ひと
の身は、あすはわが身のうえのこと。こんな古い平凡な俗言も、時には、あらそい難いものを、運命は顕然けんぜん
と示すものであった。 その年の秋。 文治五年八月二十二日には、頼朝はもう三道さんどう
から遠征の大軍を率いて、平泉へ攻め入っていた。 泰衡は、ひと支えも出来ず、祖父三代にわたって築かれた平泉の府へ、惜し気もなく火を放って逃げた。そして逃亡の途中、裏切りにあい、家臣の河田次郎の手にかかって、殺された。 九月二日のことである。 頼朝のいた陣場山へ、河田次郎は、主人泰衡の首を持って、得々と、献上に来た。 頼朝は受けた。そして彼の挙止を見てばかりいた。なんらかの感賞の言でも待つような、河田次郎の物欲しげな顔つきが、頼朝には、おかしかった。 「主殺しの犬め、こやつを斬れ」 頼朝は、幕を払って、床几しょうぎ
を去った。とたんに、犬の鳴き声そっくりな絶叫が後ろで聞こえた。それきり、彼は河田のうわさも、忌い
み嫌った。 十月初めには、多賀ノ国府kら軍を回かえ
し、その月二十四日は、もう鎌倉へ凱旋がいせんえ
していた頼朝だった。 柿かき
の秋は、幕府のうえに、奥羽二州の熟柿じゅくし
を落とした。九条兼実の日記が誌しる
したように、“── ヨクヨク御運ゴウン
ノ御人ナリ” である。だが、この熟柿を待つ間の非情な根気は、やはり頼朝でなければ出来ないことだった。 |