〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/30 (土) よし つね さい (四)

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藤原泰衡の飛脚が、鎌倉表へ着いたのは、五月二十二日、さるこく だった。
状には、
── 令を奉じて、去月晦日みそか 、義経をちゅうをは んぬ。首級は、追使ついし して、御検分に入れまゐ らせむ
と、ある。
頼朝は一言、
「やったか」
と、つぶやいたのみである。それは、泰衡の器量もその人物も、およそ測り得たとするうなずきと交じっていた。義経に対する感情は眉にも出さない。
消息はただちに、鎌倉表から、院へ早継ぎされた。
後白河は、さっと、眉色びしょく をうごかされたが、お声としては、
「さて、これで国中も静謐せいひつ になろうか」
とのみ、お静かな叡感えいかん であったという。
また、九条兼実が、その日の日記に、
“ 天下ノヨロコ ビ、何事かコレニ カンヤ。マコト ニ神仏ノ助ケ、抑々又そもそもまた 、頼朝卿ノ御運ゴウン ナリ ”

と書いたのは、鎌倉ぎいきの彼として、当然だった。けれど、後白河の仰せが、仰せ通りなものだったとは、いわれない。おそらく、御真意は、べつにあったろう。
泰衡の使者、新田冠者高衡が、やがて関東へ下って来たのは、もう真夏だった。
六月三十日、死後四十幾日かを経て、着いたのである。
さすが、頼朝は、見るを得なかった。鎌倉へも入れなかった。令して、腰越ノ浦に、使者を控えさせ、和田小太郎義盛、梶原平三景時に、実検させた。
首は、黒漆くろうるしひつ に納められ、美酒にひたしてあったという。
が、その面貌めんぼう が、その人と、すぐ判別がついたかどうか。
酷暑の長い道中だった。よく分からぬのが、むしろ当然と、うばずかれたであろう。
しかもまた、じっさいは、義経自身、持仏堂に火を放ち、妻子のかばね に折り重なって、自刃したものといわれている。首級がつつがないのも、不審といえば不審である。
けれど、遠国のことだった。使者は、なんとでも、その口上を、言いつくろうことも出来る、また、実検の士としても、和田義盛など、義経の心根を思うて、見るに忍びなかったことだろう。梶原は、こわ い気がした。見たらおそらく、その夜の夢にもうな されようかと、これも正視は出来なかったに違いない。
実検の場所もまた、 しき宿命の地といえよう。かつて義経が、兄の怒りを解くため、京より懸けて来て、血涙の書を兄へ捧げ、しかも鎌倉へ入るをさえゆる されず、むなしく追い返された腰越ノ浜だった。── 梶原は、当時を思い出して、
「はて、妙なめぐ わせよの」
夏なのに、ぞっと、背を寒くした。
今日の他人ひと の身は、あすはわが身のうえのこと。こんな古い平凡な俗言も、時には、あらそい難いものを、運命は顕然けんぜん と示すものであった。
その年の秋。
文治五年八月二十二日には、頼朝はもう三道さんどう から遠征の大軍を率いて、平泉へ攻め入っていた。
泰衡は、ひと支えも出来ず、祖父三代にわたって築かれた平泉の府へ、惜し気もなく火を放って逃げた。そして逃亡の途中、裏切りにあい、家臣の河田次郎の手にかかって、殺された。
九月二日のことである。
頼朝のいた陣場山へ、河田次郎は、主人泰衡の首を持って、得々と、献上に来た。
頼朝は受けた。そして彼の挙止を見てばかりいた。なんらかの感賞の言でも待つような、河田次郎の物欲しげな顔つきが、頼朝には、おかしかった。
「主殺しの犬め、こやつを斬れ」
頼朝は、幕を払って、床几しょうぎ を去った。とたんに、犬の鳴き声そっくりな絶叫が後ろで聞こえた。それきり、彼は河田のうわさも、 み嫌った。
十月初めには、多賀ノ国府kら軍をかえ し、その月二十四日は、もう鎌倉へ凱旋がいせんえ していた頼朝だった。
かき の秋は、幕府のうえに、奥羽二州の熟柿じゅくし を落とした。九条兼実の日記がしる したように、“── ヨクヨク御運ゴウン ノ御人ナリ” である。だが、この熟柿を待つ間の非情な根気は、やはり頼朝でなければ出来ないことだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ