〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/25 (月)  かん じん ちょう (四)

「・・・・・・・」
さっきから、左衛門尉泰家はおりおり、目をとじて、弁慶の答えに、聞きとれているふうだった。
また、山伏どもの列座の末の方にいる義経の姿を、それとなき眼で、なかめてもいた。
おたがいは武士だ、かなしい武門のかせごう の、なんたるかは、知っている。
泰家とて、木曾軍にくみ し、 のあたりに、義仲の転落も見、さまざま、武人の末路や悲歌は、身にも覚えがある者だった。
いつ、今日の義経の境遇が、明日の自分にも、ないとはいえない。
しかし、もじ自分がそうなった時、ここに見える、義経の朗従のような者が、自分にあるか否かを考えると、泰家は、うらさびしさに、耐えなかった。ひそかに、義経への羨望せんぼう さえ、覚えられて来るのであった。
それとまた、泰家には、この春、鎌倉の安達清経の家でゆくりなく見かけた静の姿をも、この日、思い出さずにいられなかった。── その夜の、静の清節せいせつ も見ていたし、鶴ヶ岡の舞も、陪観ばいかん していたのである。
あれこれ、思いあわせると、自分も、何かの宿縁に、つながっている一人と思わずにいられない。泰家は、さっきから、涙を外に見せまいとし、そのため、一そう容儀を硬めていたのであった。
そして、ひそかには、問答坊に対する弁慶の答えが、見事とも、 めてやりたいほどに思われていたのである。ほっと、自分までが、救われた気がしたのだった。
「いや、いちいち明らかな返答、神妙に承った。げに殊勝しゅしょう な人びとであったものを」
泰家は、そう言った後、関所抱えの二人を見やって、
「問答役、大儀であったぞ。が今は、偽山伏そらやまぶし たらんなんどの疑いは解けた。なんじらも、退 がってよかろう」
と、白洲からしりぞけた。
次に弁慶以下一同へ向かって、
「これまでは、関守の役目、卒爾そつじ はゆるされよ。が、疑いの晴れた上は、泰家わたくし として、寸志を勧進の内へ捧げ奉らん」
料紙すずり を寄せて、加賀絹十匹、白袴しろばかま 一腰、鏡一面と、目録に書いて、家臣の手から弁慶へ授けた。弁慶は、押しいただ いて、
疑滞ぎたい をお除き給わるのみか、即座の御奉加、なんとも、ありがたき倖せにぞんじまする。やよ同朋どうぼう たち、つつしんで御礼を申し上げよ」
と、後ろの面々へ披露した。
さらに、泰家の家臣から、
「山伏一同へ、酒飯しゅはん を差し上げよとの仰せでおざる、関屋せきや の内庭へ、お通りあれ」
ともしょう ぜられたが、弁慶は、厚く好意だけを謝して、
「われら山伏は、身にふさわしい行飯ぎょうはん と申す旅糧たびがて を、おのおの朝の宿立ちに所持して出まする。かつは、陽も高きまに、先を急ぎとうおざれば」
と、やおら、人びとをうなが して、白洲を出で、開かれた関門せきもん の一歩を、無量な感で、ほっと、通った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ