〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/26 (土) しずか め (四)

時政は、一語も聞きもらすまいとしていたが、すかさず、問いを入れた。
「五日の間も、ただ二人して、寺の奥にひそ まっていたのか。その一院とは」
土地ところ も知らず、寺々の名とて、わきまえませぬ。何と申した寺房やら」
「五日もいて、知らぬはずはあるまいに」
「耳にしたかも知れませんが、今は、思い出せませぬ」
「忘れたと申すのか。ならば、まあよい。その先は」
「やがて、衆徒の間にも、判官どの山上にあり、から らではとのかしま しい取沙汰。ぜひなく、十六日の夜、そこを立ち出で、吉野の奥へ落ち行きましたが、大峰への道は、女院禁制の境とて、わらわは、そこから帰されました」
「そうか。しかし、ただは戻るまい」
「・・・・とは、どういうお訊ねでございますか」
「何か、伊予どの (義経) との間に、後日を約したことであろうが」
「男女の仲、これきりぞとは、別れませぬ。いのちを保って、いつかはまた、どこかで会おうとは契りました」
「そういうことではない。何日いつ 、どこで」
「なんで、そのような約束が交わせましょう。明日を知れぬお互いの身。道さえない、雪の深山みやま のお別れでした」
「でも、それより、伊予どの主従、どこをさして、落ちて行ったか。また、身を寄する先ぐらいの話は、二人の間であったろうが」
「いえいえ、まったく、その後のお行く先は、ゆめ、存じ上げませぬ。ぜひものう、お別れ申して、蔵王堂の近くまで、さまよい来るうち、執行のお手に捕われて、そのまま、暗い一房に められ、夜も日も、ただ泣いておりました」
時政は、うなずかない。
かの女の調べは、根気よく、続けられた。静に、疲れの色が見え出すと、休息を与え、また引きすえて、初めから、訊き直すという風だった。
けれど、かの女の答えは、一歩も、初めの言から、変わりもしなければ、出もしない。ついには、時政も、その範囲の調書をもって、一応、事の顛末てんまつ を、鎌倉へ報じおくしかないと観た。
そして、静の身は、
「当座、磯ノ禅尼に預けおく」
と、洛外の老母の家へ、下げ渡された。
世間の眼は、六波羅から洛外の小家へ移った。── 「北条殿は、情けあるお人よ」 と彼らはうわさした。
だが、静には、まことの情けとも思われない。母の側へ帰れたことすら、あたたまる気はしなかった。他人の小声は、耳にいたく、そのくせ、義経の消息には、極度に心を研ぎすまし、身は冬野の東嵯峨にこも ったまま、世間に顔も見せなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ