作 者 略 歴
有智子内親王 新井 白石 室 鳩巣 大窪 詩仏 小野 湖山
鱸 松塘 向山 黄村 土屋 竹雨

 

ない しん のう
807 〜 847

平安前期の女流漢詩人。嵯峨天皇の第八皇女として大同二年に生まれた。母は交野 (カタノ) 女王。父帝や兄弟の源弘、源常源明 等の影響を受け、幼少から詩才を発揮した。
弘仁元年 (810) 四歳で賀茂斎院となった (一説では弘仁九年とする) 。
はやくから 『論語』 等の経書や 『史書』 等の歴史書を読み、文章を作るのを得意とした。 『経国集』 に掲載された詩 (弘仁九年頃) など、わずか十首の詩が残るだけだが、 「春日山荘」 の詩によって、その文名が上がった。今その作が伝わるのは嵯峨天皇在位中の弘仁十四年 (823) までである。
天長八年 (831) には病気のため斎院を退き、天長十年 (833) 二品 (新王の位、四品から一品に至る) に叙せられ、翌承和元年封百戸を賜っている。
承和十四年十月二十六日、死に際して遺言し、葬を薄くし、護葬使を断ったというエピソードが残っている。
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あら はく せき
1657 〜 1725

江戸中期の学者・政治家・詩人。字は在中 (アリナカ) 通称は与五郎・伝蔵。号は白石・紫陽・天爵堂。父の正済 (マサナリ) は上総 (千葉県) 久留里土屋家の家臣。
白石は明暦大火の直後、江戸柳原の土屋邸仮宅に生まれた。
幼時から聡明で、八歳の時、一日四千字の習字をしたという話が残っている。
初め、父と共に土屋家に仕えたが、二十一歳の時、父が主家を去るに及んで白石も去り、寺小屋を開いた。
天和二年 (1683) 、二十六歳の時、堀田正俊に仕えたが、正俊が刺殺されたため、ふたたび浪人の身となり、寺小屋を開き、のち木下順庵の門に入る。
元録六年 (1693) 、三十七歳の時、順庵の推挙で、甲府の徳川綱豊 (ツナトヨ) (後将軍家宣 (イエノブ) ) に仕え、宝永六年 (1709) 綱豊が綱吉の跡を継ぎ、六代将軍となるや、御用人間部詮房 (マナベアキフサ) の信任を得て寄合衆となり、旗本に列せられ、禄千石を与えられ、幕政の改革 ( 「正徳の治」 ) を始めた。家宣の継嗣家継の死後、間部詮房も失脚すると、白石も引退、余生を著述と学問研究に注いだ。
詩人としても優れ、江村北海、頼山陽なども高く評価し、その詩は 『白石詩草』 などにまとめられている。
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むろ きゅう そう
1658 〜 1734

名は直清。字は帥礼、他に汝玉。通称は新助。
父玄樸が備中英賀郡中井村 (現岡山県上房郡北房町) 出身だった事から初め英賀と号し、後、廃屋を求めて居住、このことから鳩巣と号した。他に滄浪の号もある。
玄樸は浪人の後、江戸に出て医を業とした。鳩巣は江戸中谷の生まれ。幼時より秀才の誉れ高く、寛文十二年 (1672) 十四歳の春、加賀侯の前で 『大学章句』 を講じて英才を認められ、命によって京都へ遊学し、木下順庵につき、新井白石と並んで 「木門の秀才」 と称された。
以来二十三、四歳の頃まで加賀・京都・江戸を往来して勉学し、その間、山崎闇斎門下の羽黒成美にも学んでいる。
正徳元年 (1711) 三月、白石の推薦によって幕府の儒官にあげられ、禄二百俵を給せられ、将軍吉宗の信任厚く、享保四年 (1719) 高倉院の講書を担当し、 『六論衍義大意』 『五倫五常名義』 を著わし、いわゆる享保の改革の庶民教化政策に関与した。
当時、駿河台に邸宅があったところから 「駿台先生」 とも呼ばれた。
性格はきわめて誠実、重厚自守、学問においては順庵の門下とあって、純然たる朱子学派で、異学紛糾の間にも敢然 「程朱の学」 を守った。
「孔孟の道は程朱の道なり、程朱の道を捨てて孔孟の道に至るべからず」
が、その平常の言葉であった。
また、徳の本源は心の仁であるが、仁だけではかえって仁を害するとし、道義の尊重を主張した。したがって、闇斎・中江藤樹 (陽明学) ・堀河・ケン園の四学派中、伊藤仁斎・荻生徂徠が道義を軽視するのを排斥した。赤穂浪士の討ち入りに感激し、 『赤穂義人録』 二巻を著わして士風の振興につとめ、義士の行為を賞揚し、名教の維持をもって自ら任じたのは、道学者としての自覚からである。
その学術は徂徠・伊藤東涯と並び、当代一流の地歩を占めたが、嗣子に力なく、すぐれた門弟も若死にし、その学説 (朱子学) は、古学の門流が栄える中で衰退の一途を辿り、鳩巣の説に基づき、 『寛政異学』 の禁に活躍した柴野栗山の出現まで俟たなければならなかった。
享保十九年八月十二日没す。享年七十七歳。
明治四十二年九月、従四位を贈られる。
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おお くぼ ぶつ
1767 〜 1837

江戸中期の漢詩人。名は行。字は天民。通称柳太郎。詩仏は号。別に痩梅、詩聖堂と号した。
明和4年に常陸 (茨城県) 多賀大久保村に生まれた。家業の医業を好まず、幼年時代から作詩にふけった。
初め独学で詩を作ったが、のち市河寛斎が江戸お玉が池に江湖社を開いた時 (1790) 入門した。時に24歳。また、山本北山の門も叩いた。
詩人・書家として貧苦に負けず精進し、自ら吟狂と称した。
寛斎が越中富山侯に仕えてからは、諸国を旅して詩を作った。この時の成果が 『西遊詩草』 『北遊詩草』 『再北遊詩草』 である。
33歳の頃、江戸に帰って柏木如亭 (痩竹) と二痩詩社を開いて弟子の養成に努めている。
李攀竜 (リハンリョウ) や王世貞の古文辞学をきらい、宋元の詩風や杜甫を好んだ。
1806年、お玉が池の江湖社の故地に江山詩屋を開き、杜甫の像を置いて詩聖堂と名づけた。
六十才の時、秋田藩に仕え、天保8年に死んだ。詩集に 『卜居集』 『詩聖堂詩集』 等がある。
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ざん
1814 〜 1910

江戸後期・明治の漢詩人。名は長愿、字は士達。湖山は号。
父は近江東浅井郡田根村高畑に医を業といsた横山玄篤。湖山はその長子。
文化十一年一月十二日の生まれ。小野篁の子孫になることから小野姓を用いた。
初め医を修めたが、大岡右仲に経史を学び、天保元年十八歳、江戸に出、梁川星巌に詩を学び、頭角をあらわす一方、尾藤水竹・藤森弘庵に師事し、故郷三河吉田藩の儒員となる。
嘉永六年 (1853) ペリーが来航した時、諸藩の志士と交わり、水戸に往来して藤田東湖と気脈を通じた。
安政の大獄の時、他藩で八年ほど幽閉されたが、後許されて藩校時習館の学事となり、明治四年 (1871) 廃藩置県の後、東京に出、詩酒自適、詩壇に名声を馳せた。
同十六年、維新の功績により明治天皇から端渓硯を賜り、そのことから書斎を賜硯楼と名づけた。
京都に遊んで岡本黄石・江馬天江・頼支峰らと交わり、大阪に下って優遊吟社を創立した。
三十年に再び東京に出たが、病を得、自適の生活を送った。四十二年千葉県大東の別荘に移り、四十三年二月二十八日病床の人となり、四月十日没す。九十七歳。
なお、湖山は気持ちが平らかで、人との交際も隔てが無く、率直な人柄であった。しかし、一方では条理の通らない話に対しては、寸毫も許すところが無く、罵って止まないものがあった。善憤善罵というべきであろう。そして、国事を憂えること、時の志士にも劣らなかったといわれる。
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すずき しょう とう
1823 〜 1898

江戸末期・明治の漢詩人。本姓鈴木。名は元那。字は彦之。松塘は号。別に東洋釣史・晴耕雨読斎・十髯双堂・懐人書屋とも号した。
文政六年十二月、安房国 (千葉県) 安房郡国府村谷向に生まれた。家は代々名主をつとめ、父の道順は希秦と号し、眼科医として知られた。
幼時、平郡元名村の名主岩崎泰助の蘭園書屋という塾に通って儒学を修め、秀才の誉れ高かった。
詩才も若くから顕れ、天保九年 (1838) 梁川星巌の弟子の大沼枕山が房州に遊び、鈴木家を訪れた時、互いに詩を賦している。
翌年、江戸・玉池吟社の門を叩き、詩を学び、枕山・小野湖山と共に星巌門下の三高弟といわれるほど優れた才能を発揮した。
以後、江戸と故郷を往来した。。旅を好み、各地を歩き、詩作した。その旅の中で生まれた 「芳野懐古」 は特に有名である。
芳野地方の旅の後、一時、京の鴨川のほとりに居を構えていた星巌の隣に住み、頼三樹三郎とも交わった。
その後、明治三年 (1870) 東京浅草向柳原に居を構え、七曲吟社という詩社をつくり、詩作を教授した。
明治十五年からは全国に散在する弟子たちに巡回指導を行い、三十年には故郷の那古町に帰り、その別荘を松塘園と称し、そこに住んだ。
翌年十二月二十四日病没した。年七十六歳。
その詩風は絵画的で都会風のきらびやかさがあった。生涯三千余首に及ぶ作品が有る。
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むこう やま こう そん
1826 〜 1897

徳川幕府旗本武士。明治初期の漢詩人。姓は一色。名は栄。通称栄五郎。黄村は号。斎号は景蘇軒。
一色真浄の三子として生まれ、向山源太夫の養子となる。
漢学を古賀精里の門人千坂莞爾に学んだ後、昌閉平黌に学ぶ。
養父の職を継いで函館奉行支配組頭となり、ついで、外国奉行支配組頭に転じ、水野筑後守忠那の知遇を得て、目付に登用された。
攘夷論の多い中で開国論を唱え、一時、冷遇されたが、慶応ニ年、幕府がフランス公使を派遣する際、再び抜擢されて若年寄格でフランスに赴いたが、栗本鋤雲が駐仏大使になるに及んで、翌年帰国した。
慶応四年、若年寄を辞職。維新後は徳川慶喜に従って静岡に移り、また、沼津に住み、その間、藩校の充実に力を入れた。
その後東京に出て、吟遊自適の生活を送り、明治三十年八月十二日、七十二歳で没した。
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つち ちく
1887 〜 1958

字は子健、竹雨は号。明治二十年、山形県鶴岡市に生まれた。家は代々酒井氏に仕えた。
幼い時から祖父の久礼に和漢書及び作詩の手ほどきを受け、七歳頃からすでに絶句を作ったという。
第二高等学校 (今の東北大学教養課程) ・東京大学法学部政治科に学び、在学中、国分青高ノ詩才を認められ、その世話を受けている。
卒業後会社勤めをしたが、大正十二年、大東文化協会の幹事となり、 「大東文化」 の漢詩欄を担当した。
昭和三年には大倉喜七朗の援護を受けて、 「芸文社」 を創設し、雑誌 『東華』 を創刊したが、これは漢詩の総合雑誌として、漢詩の興隆に大きく貢献した。
六年、大東文化学院の講師となり、作詩の指導にあたった。
八年には国分青香E長尾雨山。仁賀保香城と、中国東北地方に漫遊を試みている。 十四年にも朝鮮東北地方にふたたび遊んでいる。
二十年には大東文化学院も、芸文社も戦火で焼失してしまった。
二十四年大東文化大学の学長となり、日本芸術院会員に推された。
その後、健康を損ね、三十二年大学を辞し、その冬他界した。
その格調高い詩風は日本のみならず中国にまで聞えた。
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