名は直清。字は帥礼、他に汝玉。通称は新助。
父玄樸が備中英賀郡中井村 (現岡山県上房郡北房町) 出身だった事から初め英賀と号し、後、廃屋を求めて居住、このことから鳩巣と号した。他に滄浪の号もある。
玄樸は浪人の後、江戸に出て医を業とした。鳩巣は江戸中谷の生まれ。幼時より秀才の誉れ高く、寛文十二年 (1672) 十四歳の春、加賀侯の前で
『大学章句』 を講じて英才を認められ、命によって京都へ遊学し、木下順庵につき、新井白石と並んで 「木門の秀才」 と称された。
以来二十三、四歳の頃まで加賀・京都・江戸を往来して勉学し、その間、山崎闇斎門下の羽黒成美にも学んでいる。
正徳元年 (1711) 三月、白石の推薦によって幕府の儒官にあげられ、禄二百俵を給せられ、将軍吉宗の信任厚く、享保四年 (1719) 高倉院の講書を担当し、
『六論衍義大意』 『五倫五常名義』 を著わし、いわゆる享保の改革の庶民教化政策に関与した。
当時、駿河台に邸宅があったところから 「駿台先生」 とも呼ばれた。
性格はきわめて誠実、重厚自守、学問においては順庵の門下とあって、純然たる朱子学派で、異学紛糾の間にも敢然 「程朱の学」 を守った。
「孔孟の道は程朱の道なり、程朱の道を捨てて孔孟の道に至るべからず」
が、その平常の言葉であった。
また、徳の本源は心の仁であるが、仁だけではかえって仁を害するとし、道義の尊重を主張した。したがって、闇斎・中江藤樹 (陽明学) ・堀河・ケン園の四学派中、伊藤仁斎・荻生徂徠が道義を軽視するのを排斥した。赤穂浪士の討ち入りに感激し、
『赤穂義人録』 二巻を著わして士風の振興につとめ、義士の行為を賞揚し、名教の維持をもって自ら任じたのは、道学者としての自覚からである。
その学術は徂徠・伊藤東涯と並び、当代一流の地歩を占めたが、嗣子に力なく、すぐれた門弟も若死にし、その学説 (朱子学) は、古学の門流が栄える中で衰退の一途を辿り、鳩巣の説に基づき、
『寛政異学』 の禁に活躍した柴野栗山の出現まで俟たなければならなかった。
享保十九年八月十二日没す。享年七十七歳。
明治四十二年九月、従四位を贈られる。
|